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第64章

64.

何もかもが壊れてしまう、そんな絶望が辺りを覆い尽くし、わたしは前に進む事は勿論、逃げ出す事も出来ずに立ち尽くす。

溢れそうになる涙を瞼に力を込めて見開き、如何にか耐えている。

それこそ、無駄な努力だろうに。

明けない夜はない、という。

だけれど、それは本当なのだろうか?

この世界にだって、最後まで救われる事なく絶望の中で死んでいった者は、五万といるだろう。

わたしも名の知れぬ、その一人に仲間入りするだけなのだろうか?

まだわたしは、わたしが何者なのかも分からないというのに。

・・・それは、遠い日の記憶。

そう、悠久の時を生きる魔族の身には、まるで昨日の事の様。

鮮やかな、耐えられない位に艶やかな、そんな悪夢。


「小娘、逃げているだけでは、このワシには傷一つ付ける事は出来んぞ!?」

ベーレンゼイルが吠えると、右上からの斬り下ろしと、左下からの切り上げが同時にアルティフィナを襲う。アルティフィナを包み込む剣戟は、まるで剣先で造られた顎。一度その牙に捉えれば、アルティフィナの身体を漆黒のワンピースごと貫き、血塗られたボロ切れに変えてしまうだろう。

「如何した小娘! ワシを出来損ないと呼んだ割には、何もせずに終わるつもりか!?」

ベーレンゼイルの口元が、侮蔑と嘲笑に歪む。

ベーレンゼイルの放つ一の太刀を躱して懐に飛び込もうとしたアルティフィナは、真逆から僅かな時間差で放たれた二の太刀に追い散らされ、大きくバックステップでこれを躱した。仰け反る様に躱すアルティフィナの目前を血糊で黒く汚れた切先が宙を切り裂き、引かれた身体より僅かに遅れた長い黒髪を、幾本か断ち切って宙に舞わせた。

薄汚れた、見る者がそれで斬れるのかと疑いたくなる様な短剣のくせに、少しも引き抜かれる様な感触さえ残さず、鮮やかに断ち切ってゆく。


「くっ・・・」

まるで、舞う様に禿頭の男の繰り出す剣戟を掻い潜る、師にして恋人の姿を喰い入る様に見詰めるグレンの口から、苦痛にも似た溜息が漏れた。

俺では今の六つ腕の放った追撃は、とても躱す事が出来なかっただろう。後ろに飛んで体の浮いたところに、脇腹からグサリと貫かれていたに違いない。認めたくはないが(これは元より重々承知はしているが)アルティフィナは俺より剣で勝り、そして、あの六つ腕野郎もまた、俺を殺せる程に強い。

あの男の剣は、残念だが、そこいらの魔物の強さの比ではない。

ひょっとしたら、アルティフィナにも勝る程に。

如何する?

俺が二人の間に飛び込めば、一瞬でも六つ腕野郎の隙を作れるのか?

・・・駄目だ、アルティフィナが俺を庇って動きを止めでもしたら、逆効果だ。

「それにしても・・・」

何故か、アルティフィナは手にした特殊警棒を、六つ腕野郎の剣に合わせる事さえ出来ていない。だらりと下げたまま、打ち合わせる事さえせずに、ただ々々躱し続けている。

見ているだけで苦痛なのだが、アルティフィナがそうしたいと言うなら、そうさせるしかない。

グレンの握りしめた拳の中で、爪が掌の皮膚を破り、幾筋か深紅の血が滴り落ちた。


『あぁ、何て事かしら・・・。わたし、わたし・・・、イキそう、かも』

アルティフィナは深紅の瞳を抑えきれない欲情に曇らせ、仰け反る細い首筋と、自分の小ぶりな双丘の間、危急を告げる鐘の様に高鳴る心臓を狙って二本の短剣が突き出されるのを、半ば他人事の様に意識し続ける。

あの血で汚れた短剣が、わたしの首に突き立つか(きっと断ち切られた動脈から血が溢れ出し、喉に詰まって、さぞかし苦しいだろう)、それともこの心臓を貫くならば(それはそれで、とてもイタイに違いない)、わたしはやっと、無限の生から解き放たれる。

ひょっとしたら、来世は元の世界に戻れるのかもしれない。

あるいは、来世なんて二度とないのかもしれない。

どちらにしても甘美な死に、別の意味で『出来損ない』のこの身を委ねる事が出来る。

・・・なのだけど。

特殊警棒を左手に移す。

わたしが死ぬと、グレンも死にたがりそうだ。

仇討ちとか、無理を承知で特攻しそう。

それは困る。

なので、仕方がない、そろそろ・・・。

「さぁ、ジェラールホーン、お互い何時迄も遊んでばかりじゃダメよね?」

こんなわたしに、グレンはきっと嫉妬するに違いない。

そう、それに、あの男も、きっと。

どうせわたしは、あの時の絶望から解き放たれる事はないのだろう、この偽りの生のある限りは。生きているのも苦痛だが、と言って死は許される選択肢にはない。

ならばせめて、愉しまないと。

アルティフィナの右手の中指には、デヴラ男爵から奪った深緑の指輪が嵌めれている。アルティフィナが高く中空に掲げた右手で、『何もない虚空から』一振りの剣を取り出した。

『悪龍の化身』と呼ばれた古の剣が、アルティフィナの深紅の瞳と同じ血塗られた様な欲望と、言い知れぬ恐怖を周囲に解き放った。


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