第58章
僅かに、さざ波の立つ湖畔。
周囲に建物もなく、月が湖面を照らすのみ。
運河の水量を一定に保つ為に造られた人工湖は、深夜ともなると人影はない。ただ一人、音も無く湖に歩み寄る少女を除いては。
一陣の風が湖面を駆け抜け、少女の纏う黒衣のワンピースの裾を揺らし、腰まで届く長い美しい黒髪が宙に 舞った。
他には誰もいない波打ち際で、鈴が鳴るような心地良い声が、目には見えぬ誰かに語り掛ける。
「久し振りね、ジェラールホーン。えっ!? この間、俺を見捨てたって? さぁ、そんな事もあったかしら? 『古の悪龍』とも言われるあなたにしては、せせこましいクレームよね? そんな事は如何でも良いから、さっさと起きなさい。仕事よ、仕事!」
少女は両手を、首の後ろのワンピースのホックに回した。
何?、俺は乙女の言う事しか聞かない、ですって?
それは確かに、わたしは、乙女じゃないけれど。
でも。
全身、処女の愛液にまみれた今のわたしならば、あなたを乙女の代わりに起こすには十分でしょう?
紛い物、ですって?
少女が口許に笑みを浮かべる、凄惨な、見るものを凍り付ける様な笑みを。
再び少女が、口を開いた。
「そう、所詮わたしは元より、紛い物。でもね、・・・わたしは知っての通り、我儘な子は嫌いなの。これ以上わたしを怒らせる前に、さっさと、起きなさい!」
空気が鳴動し、波打つ湖面が割れ、巨大な何かが水面に姿を現した。
それは、黒々とした肉の塊。
何処が頭で、何処が体かも区別もない、腐った肉の塊だった。
内側から新たな肉が盛り上がり、張り詰め、次々と腐り落ちる。
「相変わらず、醜い姿よね。ちょっとは、節制しなさいよ。さぁ、あなたの溜め込んだ悪意は、わたしの悪意で相殺してあげるわ」
そんじょそこらの月並みな悪意では、この子の悪意に飲み込まれ喰われてしまう。でも、魔族のこの身ならば。
アルティフィナの瞳が深紅に染まった。
肉塊が崩れ、落ちる。
ぼとぼと、と湖面に落下し、それでも新たな肉が内側から盛り上がり、やがて少しづつ、その巨大な姿はその体積を減じ始める。
縮小?
否、濃縮されていく。
アルティフィナはその奇怪で醜悪な光景を深紅の瞳で見つめながら、真夏のルトビアの大通りを歩く時でさえ浮かべていなかった大粒の汗を流した。
あ、昨夜はわたしも、多少は汗をかいたかも?
まぁ、そんな事は如何でも良い、今は。
アルティフィナが首を上げると、ぱさり、とその衣服が岸に落ちた。
自身と、そしてアイリーン嬢の体液に塗れた肢体は、天空に架かる月の光に輝き、言い知れぬ美しさと恐怖を周囲に刻んでいく。
白磁の様な肢体が纏う、普通の者が見れば、一目で発狂してしまう程の狂気と、欲望。
「さぁ、たまには、お仕事しなさい、お仕事よ!」
アルティフィナがゆっくりと沈むことなく湖面を歩み、だいぶその容積も質量も減じたであろう肉塊に近づくと、唐突にその右手を肉塊に突き入れた。
右手の中指には、デヴラ男爵から取り上げた深緑の指輪が嵌めれている。アルティフィナの腕の先が深々と肉塊に沈み、肉塊が苦しそうに、あるいは喜びに震え、一瞬にして表面に無数のひび割れを走らせる。
干からび縮み、更に崩れる肉塊のなかから、アルティフィナは一振りの剣を取り出した。
「おかえり、ジェラールホーン。さぁ、何故、魔族の地に遺してきたあなたが、このルトビアに送られたか、教えて?」
アルティフィナが月光を受け、輝く長剣を頭上に掲げると、周囲の空気が鳴動し雷鳴の様な音が湖面に木霊する。
やがて『悪龍の化身』とされる古の名剣を手に、アルティフィナはルトビアの地へと戻っていった。
今一度、自身の過去と、決着をつける為に。




