第53章
53.
私は物心ついて直ぐに、母を亡くした。
母は父王の三番目の妃で、あまり世の中という物を知らない人だった。第一夫人、つまり正室を始めとする他の妃たちから疎まれていても、自分が疎まれているという事に気がつかないままに、死ぬまで何所か浮世離れした心の平穏を保っていた。
母は帝国の侯爵家の出で、帝国の一田舎貴族が帝国への朝貢の義務を持ったまま独立した事を祝い、謂わば帝国が忠臣に下賜した褒美の目録の筆頭に書かれた贈り物だった。貴族というのは不思議なもので、勝手気儘に生きている様に見えて、実のところ自分が『生かされている』という事を誰よりも自覚している。だから、自分には恋は出来ても愛は得られない事を重々承知していて、その贈り物の鳥籠の中の人生に甘んじるのが美徳と考えていたのかもしれない。
母との思い出は全てが、ルトビア城の塔の一室と城の中庭だった。そんなだから私も母が亡くなるまで、それ以外の場所を知らなかったと言ってもいい。でも、とても狭い場所ではあったけれど、別に他の場所を見たいとか、外に出たいとは思いもしなかった。私には優しい母との城の奥の静かな、だが何不自由ない生活が全てで、他の生活がある事などは想像もしていなかったのだから。
失われた物を嘆いても、仕方のない事とは言うけれど。
あるいは私にとっては、その頃が一番幸せな時間だったのかもしれない。自由という言葉の意味さえ、考えもしていなかったのだから。
知らなければ、それを求める事もない。
そして、私を愛し慈しんでくれた母が亡くなって、いきなり行き場所を無くして放り出されてしまった私を受け入れてくれたのが、王立ルトビア魔法学大学校だった。だから私は、大学には感謝している。逆に父王にも、父王が立てたこの国にも何も愛着はないけれど。
私が飛び級でこの大学に入れたのは、この大学には寮があって、これまでも何人かの、私の事を名前ぐらいしか知らない兄弟たちを受け入れてきたという実績があって、ちょうど良いと思われたからなのだろう。どちらにせよ、母のいない城の一室に戻ったところで、そこにあった幸せは幻の様に消え去ってしまっていただろう。
幸い、母を亡くして戸惑うばかりだった私には、この大学と寮の新しい生活は目新しく驚きに満ち、それでいて心安らぐものでもあった。
そして、その大学の学長である、何番目かの兄に始めて会った時。
生まれて初めて、伝えられた事がある。『自分たち兄弟は、魔族の血を引いている』という事実だった。
それが、ついに母からも知らされなかった、王家の血を引く者の隠された真実だった。
「如何して今日、大学にいらっしゃる事を、知らせてくれなかったんですか!? あぁ、でも、そんな事は如何でも良いですわ! こうして私に会いに来てくれたのですから!」
がばっ、と胸に抱き付いてしがみついたアイリーン嬢が、頬を擦り付けてそんな事をのたまわった。
ははは、う〜ん、知らせてなかったのは、さっき思い付いたから。金剛砂の入った木箱の事を知ったのが、先程だったからと言っても良い。だから、わたしが大学に侵入する計画がある事を、事前にアイリーン嬢が知っていた訳ではない。リアルタイムでわたしの侵入を検知し、わたしの目的地(この準備室)を類推し、先回りした訳だ。
・・・って、アイリーン嬢、恐るべし。ただのロリではなかったか。
ただのロリ(大学生である事を考えると実年齢は少なくとも18才くらいには、なっているはずだ、と思う。それなら合法だし? 問題ないし。違ってるかもしれないけど)な訳はないけどね、王族だし。
今日は流石にツインテールではないが、メガネっ子ではある。
因みに事前に大学に来る事を予定していたとしても、アイリーン嬢には知らせなかった、という気はしないでもないけれど。
「えーと、アイリーンさん、って『紋章学』の専攻だったんですか?」
ステラさんが、アイリーン嬢による待ち伏せに驚いて聞いてきた。
驚いた拍子に胸の前で両手を組むと、胸が揺れる。わたしの視線も揺れる。
それは驚くわよね、わたしもまさか準備室で、アイリーン嬢が待ち伏せしているとは思ってなかったもの。
背筋のぞわぞわは、何所かでアイリーン嬢に見られていたからか。
するとアイリーン嬢の後ろで控えていたシャーロット嬢が、廊下の壁際に置かれたオリーブっぽい鉢から、小さな水晶玉を一つ手にとって見せてくれた。
「いえ、アイリーン様の専攻は『幾何学』となります。ただ、アンネリーゼさんの一件でこの大学の入口や廊下に設置した『遠見の目』を、先日アイリーン様が作り直したのです。それでちょうど、魔力の再充填作業をしていて、アルティフィナさんが大学の門をくぐった事が分かったのです」
シャーロット嬢は、アイリーン嬢の功績が嬉しくてしょうがないっていう感じで、今日は既に饒舌モードに入っているらしい。
シャーロット嬢が、胸を張った。関係ないが張ってもちょっと、控えめ。つくづく、関係ないけど。まぁ、モデル体系とは、そうしたものなのよ。
『幾何学』というのは『紋章学』の上位に当たる分野で、どちらかというと論理系の学問だった。一方『遠見の目』というのは前世の技術で言うなら、監視カメラみたいなものだろう。一対の小さな水晶球を壁越しに設置し、リアルタイムに壁の向こう側の景色をもう一方に映し出す事が出来る。元々はミスリル銀の針金で結ばれた、有線の物だったそうで、大学の門の外に立つ訪問者を、中から見えるインターフォンみたいな使い方だった。
本来なら誰かが魔力を与え続ける事で(つまり、誰かが扉をノックした時)映し出す必要があるのを、小型の魔法陣に流した魔力が循環する事で、長時間に渡る定点観測、自動転写とデータの保存を可能にしているらしい。見せて貰った感じでは、如何やら水晶玉自体に魔法回路を刻印している様だ。
「そうそう、アイリーンさんは時折、変わった物を造ってくれるのです。まだお若いのに、凄いですよね」
ジェニフィー嬢が柔かにそう、教えてくれた。
な、何か引っ掛かる。
ジェニフィー嬢は大学でも上級生で、アイリーン嬢はその下級生。
それは間違いない。
だけど、その言い回し、何か別の意味が?
まさか、それ以上にアイリーン嬢が年下って事は、ないわよね?
見た目通りに13才とか言われると、わたし犯罪者になってしまうのですが。あ、ここは前世じゃないから、大丈夫かしら? そ、それに同性だし。うん。
ところで、これって実はIoT(Internet of Things)に匹敵する技術なんじゃない? つまり無線のこの新型水晶玉をばら撒かれた日には、たとえば敵の戦場の移動を全てが把握出来る。そういう応用はまだアイリーン嬢の頭の中にはないみたいだけど、必要が生じれば誰かが実用化するだろう。
お、恐るべし、アイリーン嬢。
何処まで自覚があるのか不明だが、魔族の血を引く王族、しかも発明家の才能を持つっぽい。
「す、済みません、この部屋にアンネリーゼさんの遺した『金剛砂の入った木箱』があると聞いて、急いで来たものですから。それで、その箱が何処にあるか、教えて頂けますか?」
取り敢えずアルティフィナは、二ヘラとしたアイリーン嬢を抱き抱えたまま、ジェニフィー嬢に向き直る。
仕事の後で、まだAしか知らないステラさんと、Bしか知らないジェニフィー嬢を大浴場に誘う計画は脇に置いておいて。
まずはお仕事(一応、今日の目的?)よ!




