第35章
35.
時には、『あぁ、今日のわたしは、壊れているな』と、自分でも感じる時があったりもする。
そこ、『元からじゃない?』とか、突っ込まないでよね?
わたしとしても、いろいろと事情があったりもする訳で、前世と性別が変わっていたり、人間の形はしているけれど人間じゃなかったりとか、日々の生活の中で?ストレスを溜め込む原因には事欠かない。
なんで珈琲が売れないの?とか。
最近、とみに増えているのが、職場環境に起因するストレスだろう。
今年の夏は酷暑が続いたけれども、暑さ寒さは実のところサキュバスの身ではあまり気にならないし、サキュバスは汗をかかない。問題は、夏を境に何故にかわたしの店に増えた押し掛けメイド約二名、同執事約一名の存在だった。早く大学の夏休みが終わってくれないかしらと、まるで夏休み中の小学生の母親になった気分だ。(因みに、この世界には小学校と中学校を合わせた様な物がある。その後は、いきなり大学となるのだが、大学の進学率は、全体の一割に満たないと思われる)
そう。気を使っているのに、何か凄く報われない。
しかも。日に々々、真綿で首が締まっていく、そんな感じ。
夜な々々、グレンを相手に発散する前提があっても(これは、前提。ストレスがなくても、やっぱり前提)溜まる物は溜まる。
物理的には別に、溜まらないけど。
なので、そんな健気なわたしの唯一の息抜きは、店の売り物の珈琲の賞味期限を守るべく、不良在庫の処分のひと時。
つまり、試飲ね。
勿論お店では、古くなった豆なんか使えないわ!(事もないけど)ちゃんと、処分しなきゃ。
あ、なんかちょっと、在庫を減らし過ぎたかしら?
「こ、これは。このフルーティーな香りは、きっと遥か南方の希少種だわ・・・」
すんすん、とアルティフィナが可愛い鼻を引くつかせた。
最初にその芳香に気付いた時の蕩ける様な恍惚とした驚きは、30秒ばかりの思考停止を経て、がつがつとした所有欲にとって代わっていた。
倉庫の裏口の鍵を解除し(これは、グレンの得意技)中へと侵入したグレンとわたしは、比較的小さな多数の部屋に分かたれた倉庫の構造に戸惑っていた。間隔を置いて壁に作り付けられた魔法の灯りが廊下の奥へと続いていて、廊下には無数の扉が並んでいる。
倉庫としては、使い難いったら、ないわよね?
部屋に灯がないので、捜索するには廊下の扉を開けっ放しにする必要がある。
元は王国の最下級兵士の宿舎かなんかだったらしく、頑丈なレンガ作りの部屋が廊下に沿って並んでいる。どの扉にも簡単な木の扉があるにはあるのだが、鍵は開いていて、中は穀物の麻袋がうず高く積まれていた。
そんな中の一室、扉を開けた途端にわたしを包み込む、この芳醇な香り。勿論、小麦や大麦は、こんな香りはしない。
そして、人は得難い物になる程、高い価値を見出したがる。
人じゃないけど。
つまりこの香り、焙煎する前の生の珈琲豆だが、そんじょ其処ら珈琲豆と違うのだ。
「アルティ、何やってるんだよ? 如何見ても、この部屋にはズタ袋しかないぜ? そのどれかに帳簿係が入ってたりしたら、既にバラバラ死体になってるって」
背後から、グレンが無粋な事を訊いてきた。
それを言うならズタ袋(正しくは頭陀袋)じゃない、単なる麻袋。
勿論、この部屋の麻袋の中身は珈琲豆。
グレン、・・・あなた邪魔だから。
気を効かせなさいよ。
日頃いろいろと苦労を背負い込んだわたしの目の前に、それはもう、とっても貴重な豆の袋があって、わたしに『早く盗んでね』って言っているのよ?
「グレン。帳簿係はきっと、この部屋の中に監禁されているわ。わたしはこの部屋を重点的に捜索するから、あなたは他の部屋を探して頂戴」
問題はどの麻袋に、目指す希少種が詰まっているのか?
他の豆の香りを圧する、この強い芳香。
香りの強い袋をさがすのよ、アルティフィナ!
「まぁ、確かにそうよね(何がそうなのか、不明だけどね)。万が一にも他の部屋に監禁されている事もあり得るから、ここは効率を優先して二手に分かれて探しましょう。グレンは他の部屋をお願いね。見つかったら、この部屋まで連れて戻ってきて。時間がないわ、さぁ、急ぐのよ! グレン、可哀相な帳簿係が、あなたの助けを待っているわ!」
しっしっ、とグレンを既に記憶の片隅に忘れつつある、もう一つの目的の為に送り出す。
アルティフィナがそんな事をまくし立てて背中を押すと、飽きれたグレンが頭を振って他の部屋の捜索へと出て行った。
そうよ、流石わたしのパートナー、よく理解してらっしゃる、これで心置きなく希少種の探索を・・・。
「誰だ、貴様!?」
すんすん、と喜び勇んで珈琲豆の詰まった麻袋の山に鼻を当てるアルティフィナの背中に、緊迫した誰何の声が掛けられた。
そ、それは夜中に薄暗い倉庫で、部屋の奥の麻袋に鼻を突っ込む黒衣の女の子がいたら、怪しいわよね・・・。
でも、こうなったら、折角だし。
「・・・わたしの『目』を探しているのよ?」
振り向いた『のっぺらぼう』の黒髪の少女に、腰を抜かした警備員が絶叫を上げて逃げ出した。扉の枠にぶつかった拍子に転倒し、文字通り転げながら走り去った。
突っ込みどころが、ない訳じゃない。口が無いのに、なんでしゃべれるの、とか。
見た目を思うがままに造れるのは、サキュバスならではの本来は相手の『理想の異性』を見せる為の能力なのだが。
手で触れるとちゃんと目も鼻も、もちろん口もある。
まぁ、良いかしら。
お仕事(希少種の捜索)しよ!




