第34章
34.
『人の欲望は、御し難い』
そんな思いが、思わず口をついて出た。
正確には口の中で発した、つまり、呟いた程度だと思う。
あるいは、嘆いた、とも言う。
内容的には、少なくともサキュバスのわたしが言うのだから間違いない、多分。
右肩の辺りに、ピンクっぽいツインテールの片割れ(もう片方は頭の下で見えない)と、そのつむじ。
左肩には、銀白色の繊細な銀糸が形造るボブと、そのつむじ。
つまり。両手(両肩)に、つむじ。
わたしも欲にまみれた身体、だけど。
サキュバスだし。
それにしても、問題があると思うのは気の所為だろうか?
どうせなら、この世に転生する時に倫理観なんてものは、あちら側に全部置いて来るのだった、つくづくそう思ったりもする。
狭い、とは言っても一般の馬車に比べればはるかに大型の貴族仕様の馬車は、小柄な者であれば三人が並んで座ることが可能だった。で、その後席の積載能力の限界まで試すべく、アイリーンとステラに両側から、しがみつかれ、挟まれてアルティフィナは座っていた。頼みの綱のシャーロット嬢は、わたしの向かいで見て見ぬ振りを決め込んでいる。
『わたしは何を、やってるのかしら?』という疑問と、『単に、帳簿係を救出に向かっているだけよ!』という答えを何度も反芻しつつ、その間にも馬車は目的地の倉庫へとひた走る。
やがて、馬車がスピードを落とした。
怪しい黒塗りの馬車を止めた衛士たちとの、やり取りが聞こえてくる。
『止まれ! ・・・し、失礼しました! どうぞ、お通り下さい。しかし、こんな場所に何故に・・・。い、いえ、滅相もございません。どうぞ、お気を付けて!』
通りを固めていた衛士たちは、御者台の上の貴族の権威を嵩にきた横暴な御者を演じる(多分、半分以上、地だろう)グレンを、最敬礼で見送っているらしい。
可哀想に。あんなんでは、若い兵士は人間不信に陥ってしまうのではないだろうか。
いや、人の心配以前に人間不信になりそうなのは、わたしの方だし。
「よう、着いたぜ、お嬢さん方。・・・アルティ、少しは自制しろよな? 」
馬車の戸を開けて、グレンがぬっ、と顔を室内に突っ込んできた。
荒事好きのグレンは一見いつも通りに見えるが、緊張どころか実は若干浮かれている。長年見てきたわたしには、その微妙な変化が手に取るよう様に分かったりもする。
分かるついでにグレン、あなた今夜、死刑ね。
そんな誤った認識も、口に出さなきゃ問題ないのにね。
口は災いの元、そう、口がどんなテクニックで貴方に災いをもたらすのか、よーく、教えてあげるわ。
でも、良かったわね。寛大なわたしは取り敢えず、この仕事が終わるまでは執行猶予を与えてあげるからね。
そうでないと、仕事出来ないしね。
「本当に、私はここに残らねばなりませんの? 」
ピンクの伊達眼鏡の硝子越しに、その瞳に涙を溜め込んだ殺人的な視線で私を睨んでくるアイリーン嬢を如何にか馬車の席に押し留めて、向かいのシャーロット嬢に目配せする。
つまり『後は仕事しなさい!』ってことよ。
そうでないと、わたし、仕事に行けないし。
先ほど店を出るにあたっては、『馬車のオーナーとして同乗を求めます』などと、妙な事を言い出したステラさんと。『ステラさんが行くのに私が置いていかれるなんて、王族の一員として、そんな屈辱は甘受出来ませんわ!』などと言い出した雇い主がおり。
深夜だというのに、妙に気まずい(というか、ねっとりべっとりというか)状況を現出させていた。
「残念ですが、流石にこれ以上はグレンさんとアルティフィナさんの、お仕事の邪魔になってしまいますわ。それに、アイリーン様がご心配ならずとも、アルティフィナさんはすぐに悪漢共を打ち倒し、戻って来て下さいます」
いえいえ、その線引き『これ以上』とか、おかしいから。
分かっているなら、最初から何とかしなさいよ!
シャーロット嬢の発言(今日は、ちょっと長め)は、一見真っ当ではある。
ていうか、そもそも目的は帳簿係の奪取であって、誘拐犯の逮捕じゃないし。
「では私は御者台で、お二人をお待ちしております」
男装の麗人といった出で立ちのステラさんは、目深にシルクハットを被り右手には、二頭立ての馬車の馬に振るうには、聊か長すぎる鞭を握っている。
本人曰く、馬車を駆る時の護身用なのだそうな。
に、似合うけどね。
折角、黒の燕尾服だし。
・・・これはもう、燕尾服の内側がウサギさんになっても、十分過ぎる程に似合うのではないだろうか?
多分、間違いなく、わたしが頼めば喜んで着替えてくれるであろうところが、怖い。
分かっているわねアルティフィナ? 絶対に口に出したら、負けよ!
「ステラさん、一刻しても、わたしたちが戻らなければ、わたしたちを待たずに馬車を出しなさい。シャーロットさんは、アイリーンさんを頼んだわね。じゃあ、後で会いましょう・・・」
アイリーン嬢の後ろ髪を引くような視線を断ち切り、ステラさんに続いて馬車の外に出る。
夜の街は、だいぶ涼しい風が吹く様になった。
多分、地ベタに寝てしまった酔っ払いが、風邪をひいてしまうくらい。
さぁ、お仕事の時間くらい、しっかり楽しまないとね!




