第29章
29.
つと、アルティフィナが席から立ち上がって、逆手に持った短刀を振り上げたまま凍りついたステラの右手を、自分の両の手で包み込んだ。
ステラは雨の中を馬車を走らせてきて冷え切った自分の手より、添えられた黒髪の少女の手の方が、更に冷たいという事に気が付いた。
そして、自分を正面から見詰める少女の漆黒の瞳が、見る者を捕らえて離さない、そんな暖かい優しさと、それに倍する冷たい悲しみを湛えている事を理解した。
否、理解させられた、と言っても良かった。
雨に濡れたままの少女の漆黒の髪は、しっとりと、だが内に秘めた熱情を表すかのように乱れている。
『あっ・・・』
何故か頬が火照るのを止められぬまま、机越しに黒髪の少女に唇を奪われる。
やがて、無限の時間が流れ去り、お互いの絡まった舌が解かれ、どちらとも分からぬ程に混じり合った唾液が、空中に弧を描いて滴れ落ちた。
ナイフをきつく握っていたはずの右手の指は、いつの間にか開かれ、自分でも知らぬ間に黒髪の少女の首の後ろへと回されていた。
「如何して・・・?」
思わず指先で自分の唇を触れて疑問を口にしたステラに、アルティフィナが、くすっ、と微笑んだ。
ダメだと、疑問には思うけど、拒めない。
というより多分、自分の今の疑問は『何故、キスを止めてしまうのか?』そういう意味だと気付かされて、ステラは今更ながらに頬を赤らめた。
「アルティフィナさん・・・、あなたは何者なの?」
そう訊きながらも、訊くのが躊躇われる、というよりは、もう、そんな事は如何でも良い気もする。そう、『父の言いつけ通りに、死ねなかった』時点で、全ては終わってしまっていた。目の前のアルティフィナと言う名の黒髪の少女と、幼き日にお目通りして以来、多分十数年振りに見まえたこの国の第四皇女に問われ、これまで積み重ねてきたはずの黒き帳は、跡形もなく全て切り裂かれ取り払われてしまったのだろう。
ステラはアルティフィナの首に回された両の手を解いて、がくりとテーブル席の木の座席の背に、その黒い燕尾服に包まれた小柄な肢体を預けた。
自分でも気が付かないうちに、テーブルの上に乗り出していたらしかった。
自分の取った行動が、はしたなく気恥ずかしいが、それでも何か、体から重い物が抜け落ちた、そんな気がした。
「苦痛もまた、快楽の一部なのよ? ・・・だから、わたしに話して?」
眼の前の黒髪の少女が自分の、その細い顎を伝わる残滓を自分の指先で拭き取り、悪戯っぽい輝きを漆黒の瞳の奥に宿らせながら、ぺろん、と舐めとった。
そう、私はもう、その事を知っている。
「ご推察の通り、私は前伯爵の嫡女です。そして、嫡男であるはずの現伯爵は、実在していません・・・。話は、今は亡き母の死に遡ります。母を深く愛していた父は、男の子つまり『嫡男』を生まずして死んでしまった母の後に、誰か他の女性を新たな正妻として迎える事を拒みました。そして私の架空の弟が生まれ、母はその産後の肥立ちが悪くて亡くなったという事にしました」
いざ話始めると、ステラは目の前に座る黒髪の少女と、この古風な喫茶店にいる予期せぬ再開を強いられた第四皇女ら周囲の者たちにも、はっきりと聞こえる凛とした淀みない声で説明を始めていた。
「帝国議会の、議席ね?」
差し挟まれたアルティフィナの問いに、ステラが頷き肯定する。
前伯爵は何故そこまでして『嫡男』に拘ったのか、その理由は明白で、世襲制の帝国議会の議席は『嫡男』にのみ与えられるからだ。男尊女卑の考え方が根強い帝国では、女性の市民権投票権はあっても、議会での政治への参画を認めていない。仮に『嫡男』無きままに議員が死去すれば、議席は帝国議会に返上される。そうでなくとも余りに数の多い『議席』とその俸給は、今では『自然減』によってしか減らす事もままならない。たとえどんなに帝国の財政が傾いても議席自体は削る事が出来ない事が、帝国法として明記されている。
元々は再び政治を帝政に戻さない為の法だったのだが長い年月のうちに、それが議会という民主的な意思決定機関を設けた帝国の、自己浄化機能を停止させていた。皮肉な事と言わざるを得なかった。
「何故、死のうとしたのかしら?」
アルティフィナが問う。
だが、アルティフィナはもう、その答えを必要とはしていなかった。
「そう、でももう、『わたしのもの』には、勝手に死なせたりしないわ。そうでしょう、ステラさん?」
酷い人だ、そう思った。
確かに、なんて甘美な、苦痛。
私の心と体を強烈な苦痛で引き裂き、裂かれて出来た間隙を甘美な媚薬で埋めていく。
少し火照った頬のまま、ステラは小さく頷いた。




