第26章
26.
やっと朝晩だけは、少し過ごし易くなって来た気がする。
暑い夏が、過ぎようとしている。
わたしは週に三日程、伯爵のお屋敷に通ってメイドの仕事をしている。今日はお屋敷でのメイドのお仕事はお休みで、喫茶店でのメイドのお仕事中。但し日中なので、お店は開店休業中。
だが、たとえ昼間が暇でも朝晩は盛況で、店の経営は大幅に売り上げが伸びている。
ふっ、もっと褒めてくれて良いわよ?
流石、高級珈琲店の経営者。わたしは、経営センスも抜群なのだ。
「如何したんだ、アルティ? ま、まさか、伯爵に襲われて・・・」
違うでしょ!
毎晩、わたしを襲っているのは、あなたでしょ!
あ、逆かも?
心配性のグレンが、悩むわたしに何や感や言ってくるが、それはさておき。
伯爵には、襲うも何も痕跡がないのだ。
『人はパンのみにて生きるに非ず』という。
それは、そうなのだが。
直接食事を摂らずとも男の精だけで生きていけるはずの、サキュバスとかは別にして(あくまでも、普通のサキュバス、は。まぁ、何事にも例外はあるものよ。多分)普通は生ある者は、ちゃんと食事を摂るし、そこには生活の痕跡というものが生じる。
そう、普通はどれほどクローゼットに整然と揃えられていようと多少なりとも衣服には皺がより、ロッカーに並べられた靴の踵は擦り切れる。
あるいは部屋には床に、抜けた頭髪の一本くらい落ちている。
はず、だと思う。
蔵書の並ぶ伯爵の居室には、大きな執務机が置かれていた。なのに、日記帳どころか、幾つもある引き出しは、どれも空っぽ。いや、これ位なら名だたるプレイボーイたる者『俺は一度として、机に向かった事何かないぜ』で済まされない事もない。『俺にはベッドがあれば良いのさ』みたいな。
だが伯爵の居室は、まるで綺麗なモデルルームか何かの様に、生活感がなかったのだ。
「そう言えば、今日、朝市で紅茶を売っていたら、お客様が『昨夜も伯爵の馬車を見掛けた』とか話しておりました」
朝市での売り子を終えても姿勢正しく、まったく疲労を感じさせないシャーロット嬢が、そう教えてくれた。
でも、ちゃんと紅茶だけじゃなく、珈琲も売ってね?
シャーロット嬢には最近はわたしが伯爵宅のメイドに行かない日も、朝市の売り子をお願いしてしまう日もある。
腰が立たない朝とか。
今朝は『わたしは良いのよ、グレン、あなたは男なんだから死んでも仕事はしなさい』とベッドから蹴り落とした。で、アイリーン嬢と、ぼおっ、と店で留守番していると、フラフラのグレンが帰ってきた。
自分がフラフラなのに、帰ってくるなり人の心配をするところがグレンらしい。可愛いので、頭を撫でたら、逃げられてしまった。
グレンと一緒に戻ってきたシャーロット嬢が、朝市の客が伯爵の馬車をみた話を教えてくれた訳だが、それは、おかしい。
帝都に行っている伯爵は、伯爵の館どころか、この街には戻っていないはずだ。確かに昨日も馬車は、館にあった。そもそも伯爵は馬車なしで、如何やって帝都まで行ったのだろう?
伯爵家の馬車は大きな黒塗りで、両側の扉には大きく伯爵家の紋章が金箔押しで描かれている。あんなド派手で悪趣味な馬車は、他の貴族でも使っていない。見間違える訳がない、いや、見た者は、はっきりと印象に残る。
『伯爵が、今夜も街に繰り出している』って、考える。
そして、それを噂にする。
街に溢れる、伯爵の噂話。
だが、この段階で街の住人が見掛けたのは『馬車』ではなく、『伯爵』そのものに置き換わっている。
「ねぇ、誰か、そのプレイボーイの伯爵って、実際に会った事のある人っているのかしら?」
わたしは伯爵の館で、ステラさんの指示でたくさんある部屋の掃除や、ステラさんの書いたリストの品物を買いに出たりもする。そして、ステラさんから何とか伯爵の人となりを聞き出そうとするのだが、何時もするり、と逃げられてしまう。やはり自分の雇い主の話はし辛いわよね、と半ば納得はしていたのだけど。
わたしのメイドに来ない日だけ、伯爵が邸宅に戻る。そういう線もない訳じゃ、ないけれど。それなら部屋には痕跡が残る。ステラさんの買い物リストにも伯爵の日用品があっても良いはずだが、どう見ても放蕩者の食卓の素材には見えないくらい、買い物リストの品々は質素だった。
「そ、それはもちろん・・・、いえ、そう言えば、私自身は会ったことがありません。亡くなられた先代の伯爵が、放蕩息子の事を嘆くのを聞いた事があるだけです。そう言えば、その先代の伯爵の葬儀も、身内の者だけで行うって。父王に対する『爵位を継いだ』という報告も、本人が来てないって。『また、どこかで、ほっつき歩いているのか? 王に礼を欠いてる』って、城の家臣の者たちが怒ってましたわ。でも、確かに誰も直接、当代の伯爵を見た者はいないですわね。あるのは何時も、噂だけです」
アイリーン嬢が、頬に人差し指を当てて悩んでいる。
その仕草、ツインテールでメガネっ子でその仕草は、もう犯罪的だ。
貴族というのは複雑で、その姉弟、特に婦女子であれば社交界へのレビューまでは、身内の者にしかその顔を見せる事もない。男であっても、移動は専用の馬車だし、王族の様に行幸行事だ祝賀の挨拶だとかなれば、街の市井の者に顔を見せる機会は少ないかもしれない。
だから、噂だけが一人歩きする。
否、噂だけで『伯爵という虚像を創り上げた』
おそらく、噂をあるいは『放蕩息子でプレイボーイ』というイメージを作ったのは、先代の伯爵だろう。だが、今はもう先代の伯爵はこの世の者ではない。幽霊になっても、夜な々々馬車を走らせている?
そんな事はありはしない、誰かが亡き先代の伯爵の遺志を継ぎ、代わって馬車を走らせている。
そんな事が出来るのは、ステラさんだけだ。




