第23章
23.
わたしが前世を過ごした世界では極度に文明が成熟し、誰しもが『平和』という、無味無臭で重さも手触りも感じられないものを、何の有り難味もなく普通に享受する事が出来た。勿論、前世の世界だって、そうではない場所があるという事を、知識としては知ってはいた。でも、わたし自身がそんな土地に住むことになろうとは、それどころか、世界を形造る『理』そのものが違う異世界に生きる事になるとは、想像にもしてはいなかった。
だが、魔物が闊歩するこの世界では、人の命はごくごく簡単に失われる。それこそ、ちょっと街を出ただけで、魔物の餌となってもおかしくはなかった。おそらく、この世に生を受けた人間の子供が、この世界でいうところの成人である16歳を迎える確率は、50パーセントを切っているのではなかろうか。
そんな世界だからか、この世界での人の命はとても軽い。
でも、今でもわたしには、人の命が軽んじられる様な事を容認する事が出来ない。この世界に於いては、それは『甘い考え』と一笑に付されても、致し方ないのだが。
・・・そもそも、もう、わたしは『人』では、ないのだけれど。
幸いなのは唯一、魔物が余りにも人を食べるので、人間の国に限って言えば、どの国も戦争などしたがらない事だろう。でもそれは、人間の国に限った事だったらしい。
どうやら、魔族たちは、戦争を望んでいる。
そんな訳で、おそらく人は沢山死んでいくけれども、とても『平和』な世界、それが、この世界だった。
「あぁ、赤字だわ・・・。大赤字よ。如何すれば良いのかしら・・・」
ふぁさり、と長い黒髪が、美しい漆黒の絹糸で出来た扇の様に広がった。
呻くように店のテーブルに突っ伏すアルティフィナを、他の三人が生暖かい視線で見詰めている。
相変わらず、地上の全てを焼き尽くすつもりなのではないか、という程の炎天下で、ルトビアの街の大通りは人通りが皆無だった。こんな時に街でも南端に位置する、つまり中心地から遠く離れたこの喫茶店が流行っている訳がなく。今日も店の重い樫の木で造られた扉が開かれたのは、この店の建物の二階に住んでいるアルティフィナとグレン以外、つまり店の新人店員、アイリーンとシャーロットの二人が揃って出勤してきた時だけだった。
閉店、倒産、夜逃げ、そんな不吉な単語がアルティフィナの脳裏をよぎる。
「大丈夫ですわ、アルティフィナさん。その時は、私がアルティフィナさんを私専属のメイドとして雇わせて頂きますわ。勿論、グレンさんも。グレンさんに厨房をお願い出来れば、私は毎日、グレンさんのスパゲッティや、チキン・サンドを頂く事が出来ますし、何の問題もありませんわ!」
ピンクの縁の伊達眼鏡、そしてピンク掛かった金髪をツインテールで纏めるという、おそらく禁断の選択をしてしまったらしいアイリーン嬢が、内容には全く持って王家の威厳も尊厳もないが、その言葉の資産的裏付けだけは十分な内容を、にこやかに提案する。
狭い店内には、マンデリンっぽい野生的な珈琲の香りが満ちている。
因みに、ぽいというだけで、勿論マンデリンそのものではないが、引き締まった酸味も含め、前世で好きだったマンデリンに良く似ている。深めのローストが、とても良く合う。この世界でも、南方に行けば多種多様な品種の珈琲豆が採れるのだ。
客が一人もこないだとか、客がこないので、わたしが店のテーブルに突っ伏していても誰も問題視しないだとか、わたしの突っ伏すテーブルの横に立つメイド(しかも、眼鏡っ娘、且つツインテール!)が、実はこの国の第四皇女ですとか、考えたくもない問題を棚上げしさえすれば、実に長閑で平和な午後のひと時だった。
「なぁ、アルティ。この街で喫茶店っていうのは、流行らないんじゃないか? たとえば、そうだな。喫茶店を辞めて鞍替えしようか? 冒険者なんか、日銭を稼ぐのに丁度良いと思うんだがな」
カウンター越しに厨房のグレンが、やはり無責任さに於いてはアイリーン嬢に勝るとも劣らない提案を投げ掛ける。
喫茶店が流行らない事と、冒険者稼業に鞍替えする事とは、はっきりいって何の関連性もない。グレンは自分の得意分野(と、自分で思っているだけ。つまり、体がデカいだけだ。いろいろと勘違いしている様だが、デカければ良いという訳ではない。まぁ、悪くはないけど)の冒険者になりたいだけで、普通は喫茶店を辞めて何々屋を始めようと考えるのが正しい。
もちろんわたしには、この珈琲店を辞めるつもりは、微塵もないが。
余りにも無責任な提案に、自分でもワナワナと突っ伏した肩が震えているのが分かる。
グレン、そのいい加減は発言の責任は、今夜、きっちり取って貰うわよ?
それにしても、懲りない子だ。
本能的なのか無意識的になのか、昔から、わたしの嗜虐性を刺激せずには、いられないという、妙な特性を持っている。
「・・・騎士団は、二人を歓迎する。給金も保証されているし、宿舎もある」
主君でもあるアイリーン嬢の斜め後方に控えるシャーロット嬢は身長こそ、わたしよりも高いが見るからにほっそりとした体形で、とても城を守る騎士団の一員だ、などとは思えない。
見事な赤毛をポニーテール(ツインテールよりは標準的だ)にしていて、少し幼い感じの『将来は、きっと美人さんになるね』と予想させる(今はまだまだガキだけど、という意味もある)容姿と、今でも十分にひょろ長い肢体(つまり、アイリーン嬢と違いわたしは直接の確認はしていないが、アイリーン嬢並みにつるんぺたん、と言う事)を、アイリーン嬢とお揃いのメイド服に包んでいる。
実は二人のメイド服を新調した事も、この店の今月の損益悪化に十二分に貢献している。流石に経営者としては、店の制服までも自腹にさせるというのは、気が引けたのだ。今にして思えば、わたしも見栄の為に馬鹿な選択をしたものだ。
二人とも、似合っているから良いが。
良いのかしら・・・?
シャーロット嬢はどちらかというと無口な娘で、どちらかと、ではなく明らかに口達者なアイリーン嬢と異なり、時折、短い発言があるだけだ。
多分、主従の間で発言の総量のバランスをとっているのだろう。
ないか、そんなの。
アイリーン嬢曰く、アイリーン嬢の信頼厚いボディガードらしいのだが、その細身の体躯で本当に護衛が務まるのか、疑問ではある。武骨な性格らしく、不要な事は言わないし、言っても内容的に却下ではある。
ひょっとして、まじめ過ぎて世の中には近衛騎士団以外の職種があるという事を理解していないのではないだろうか。
どいつもこいつも、ダメだわ、ダメ過ぎる・・・。
両手をテーブルについて、身を起こす。
三人の視線が痛い。
やはりダメだわ、わたしが頑張らないと、こいつらに任せていたら、早晩にこの身の再就職先を考える事になる。
考えるのよ、アルティフィナ、身売りする事になる前に!




