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夢の住人

 窓に映される僅かな光はまだ薄ら寒く、春の朝にしては不気味だった。


 時計は5時過ぎを指している。起きるには早い時間だが、蓮は布団から出た。

 登校の支度をしながら、蓮は脳裏に映る一人の女子の顔をじっと見つめていた。高校の同じクラスだということは覚えている。しかしはっきりとしたことは思い出せず、段々と頭の中に焼きついた肖像は消えていくばかりだった。

 蓮はまだ寝足りないとでも言うように寝ぼけ眼をこする。もう一度布団に入ろうかとも思ったが、変な夢を見たせいか変に身体が覚醒したようになって寝る気にはなれなかった。

 机に向かったまま、蓮は目を閉じた。不思議な夢の住人は、もう現れてはくれない。

 沈黙の部屋で、蓮はもうすることがなくなった。時計を見る。5時半。早く学校に行きたいという無自覚な衝動を抑えるように、蓮はイヤホンを耳につけた。




 急ぎたくなる歩調をなだめるようにして、蓮は高校の門をくぐった。入学式から一週間余りが過ぎ登校には慣れ始めていたが、今日に限っては胸の不思議な高揚が蓮の冷静を削り、初めて乗る電車のように新鮮な風景が彼を煽っていた。


 今朝の夢に出てきた女子の正体。この学校の、僕らのクラスにいるはずだ。いつもより勢い大きく教室の扉を開けた。


 自分の座席につき、周りを見渡す。それらしい人物は見当たらなかった。まだ教室の席の半分は空いている。蓮は今になって不安の思いが押し寄せてきた。止まりきれない胸の揺さぶりがまるで固定端を反射する波のように裏返る。


 しかしほどなくして、その彼女は姿を現した。教室に足を踏み入れた彼女の後ろには八巻がついてきている。蓮は二人の姿を見てすぐに、入学式の日に八巻と一緒に話していたあの人だと気づいた。彼女を見た瞬間、消えかけていた夢の住人が鮮明に蘇って重ね合わさった。彼女だ。

 彼女は蓮の3つ前の席のフックにバッグを下げると、また八巻のところに駆けていった。蓮は席順から彼女の名前を推測する。まだ席替えを行っていない教室は名前の順で席が並んでいるだけだった。蓮の前は隆で、その前は関口。その前は……確か瀬川という苗字だったはずだ。


 この十日ほどの高校生活で、瀬川に関して何か突出して大きな出来事があったわけでもなく、蓮は瀬川と一言も話したことはない。蓮の瀬川への印象は薄く、そこには高校初日の自己紹介の記憶が少しと、八巻とよく一緒にいるという風景くらいのものだった。本人が夢に出てくるほどの日常の衝撃を蓮は彼女から受けたことはない。今朝の夢さえ見なければ、瀬川のことなどただ多くいるクラスメイトの一人として特に気にもかけずに接していったはずであるだろう。しかし今やその夢自体が蓮への衝撃波となって、もはや逃れることのできない砂地獄へと変貌しているのであった。

 蓮はおそるおそる瀬川へ視線を向けた。屈託のない笑顔は夢で見た彼女とまさにリンクした。背筋に悪寒が走る。


 これによって、蓮の夢に出てきたあの女子が瀬川であることは疑いようのないものとなっていた。顔面は強張り、夢のことが不思議というよりもむしろ不気味に見えかけてくる。何なのだ。なぜ自分の夢に、瀬川が。蓮はしばらくの間、震えたような体を抑えながら一人で机の色を睨んでいた。


 ようやく肩の力が抜けた頃、蓮は夢そのもののことを考え始めた。蓮のよく見る夢というものには、元より知っている人物が出てくることが少ない。夢の中では知人として話していても、醒めたときには誰だかわからなくなる。春香だって蓮の夢に出てきたことはない。蓮は、あの春香の優しい笑顔で、一回でもいいから夢で会えたらいいのに、とぼんやり感じた。そう感じながら蓮は今朝の瀬川の笑顔を思い浮かべると、彼女も確かに優しそうな、春香と通じるところがある笑顔を残しているように感じる。春香と瀬川の共通点はそれ以外に見当たらないが、先ほどまで居座っていた夢の不気味さは完全に消え去っていた。蓮の心にあるのは瀬川への不思議な何か、それだけがいまだに取り除かれない。シャボン玉が突然ふっと現れて、ずっと目の前に浮かんでいる。通せんぼしていて自分の行く手を阻んでいるんだけど、表面に映る虹色が綺麗だから……戸惑いと心地よさに翻弄されて、蓮は今も漂うシャボン玉をはじくことができずに、ただ立ち止まっているだけだった。


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