あの時の僕らのままで
昼過ぎの日差しが降り注ぐ中庭を蓮たちは横切っていく。六限の物理の実験を終えた蓮のクラスは、あとは教室に戻り終礼のホームルームが始まるのを待つだけとなった。
「暑い。はやく梅雨来ねえかなー」
建物を周りに囲んだ隙間の空からみえる太陽を見上げて隆はうっそりと呟いた。
「水泳日和だしよかったじゃん」
「ばか! 今日からテスト期間で部活動停止だぞ」
「あれ、そうだっけ」
そうか、テスト期間か。高校最初の定期テストに向けて、クラスメイトは勉強に励んでいるようだった。しかし蓮自身はというと……まだ勉強を始めていなかった。
「でも蓮はいいよな。小テストは満点だしノートもきちんと取ってるし」
「ノートはちゃんと取らないと復習できないだろ」
「だって! 数学のあの理解不能な数式羅列させられたら眠くなっちゃうんだもん!」
「……それで、ノートはいいの? 貸してあげるけど」
授業中、蓮は目の前の席の隆が崩れていく様を何回も見てきた。たびたび起こしはするが、その後もノートを取る気配のないままぼーっと黒板を眺める隆を、蓮は彼の背中から感じ取っていた。
「フフーン、その必要はない。ある女性と秘密の契約を結んでいるの――」
「蓮!」
その声に後ろを振り向くと、紗希と八巻が駆けてきていた。
「今日の放課後、忘れてないよね!」
「え? あ、あぁ」
「よかった。じゃ、また後で!」
そう言って紗希はまた教室へ駆けていった。八巻は紗希についていきながら蓮のほうを見て、安心したような笑みを投げかけた。そしてそのまま、紗希に続いて駆けて行ってしまった。
「……なんだよあれ、お前、今日の放課後何するんだよお!」
「えっ、それは、ちょっとまっ」
当然だ。隆は蓮と紗希のこれまでの関係を知らない。どこから話そうか。とりあえず蓮は、紗希とは幼稚園の時友達であったことだけ話しておいた。教室に着いて、ホームルームまでの間にも隆との会話は続いていた。
「なんだよ~、そんなことならはやく教えてくれよ。八巻さんも知ってるような表情だったし」
最初から知っていたなら、隆にももっとはやく話していたかもしれない。しかし、そこには複雑な、数分では話し切れない出来事が立て続けに起こったのだ。話してもいいが、きっと四人の集まりのことは、誰に話すものでもないような気がした。
「じゃあ、運命の人との再会ってやつ?」
「ええっ! ちょっと、違うし声大きいよ」
この隆をうまくかわすのにはまだ時間がいるが、そのうちきっと慣れるだろう……なんて、そんなくだらないことを考えながら、隆の言葉に気付かないふりをしてる紗希の背中を蓮は眺めていた。
「高橋君」
その言葉に蓮と隆が一斉に振り向いた。そこには、八巻が三冊のノートを持って立っていた。
蓮は、八巻に声をかけられるのに思い当たるふしがなかった。しかし隆のほうは、八巻がなんの用件で来たか知っているというようなしたり顔で口を開いた。
「えーと、それじゃ俺と蓮のどっちを呼んでいるかわかりませんね。苗字も含めてフルネームで呼んでください」
隆の意地悪な返答にしかめ面を浮かべながら、八巻は言い直した。
「タカハシタハ……っ」
瞬間、隆はレアなものを見るかのように目を見開いて輝かせていた。
「あ……あの委員長が、噛んだ……!」
一方で八巻は顔を赤らめて視線を下に落とし、次には声を少し荒げて取り繕った。
「たっ、隆君、これ言われてたノートだから。明日までには返してねっ」
そう言って隆の机にノートを置いてさっさと自分の席へ行ってしまった。
「……余は満足じゃ。もう今なら死んでもいい」
八巻さんかわいそうに。
紗希はいつもの駅で降りなかった。紗希はまるで降りる駅のことなど気にしないというように電車の中でもずっと興奮気味に話していた。伸明のこと、春香のこと。そして再会できた嬉しさ。すべてが彼女の表情となって表れている。そのうわずった声を聴いていたら蓮もつい笑みがこぼれた。そして生まれ出る清爽は、電車に乗ったゆさぶりでさらに高揚感を増した。それはまるで、あの日江ノ電に乗っていた時の胸の高鳴りを思い起こさせた。夢のようなあの江ノ電の風景が頭にふわり浮かび上がり――そして蓮の瞳に映った紗希の顔は、夢心地のあの屈託のない笑顔だった。
「そうそう、あの時、春香の家で二人で何してたの?」
「え、あの時って?」
「一昨日だよ! 私が久しぶりに春香の家の前の公園に来て、伸明が蓮に電話をした時!」
「う……そ、それは」
しどろもどろになる蓮を紗希は得意げな顔して覗いた。
「応援してるから、頑張りなよ~!」
「えっ」
もしかして、僕が春香を想ってることや色んなこと、もう知ってるのか……?
「春香から、聞いたのか?」
「えー? あ、うん。聞いた聞いた」
もうそんなところまで話が及んでいるのか。それなら……仕方ない。蓮は紗希に詰め寄られて逃げ場がないといったように、事情を詳しく話さざるを得なかった。隠す必要はないのだが、改めて口に出すとなんだかくすぐったいような思いがしてならなかったのだ。
「なるほど……」
一通り話し終えると、紗希は満足そうに頷いた。
「わかるよ、恋に急いじゃう気持ちも。でも、私ははやく二人に会いたかったんだから、後回しにしてもらっちゃ困るよ!」
紗希はいたずらっぽい笑みでそう言った。
「そうだよね、ごめん」
電車が駅に近づき、まもなく停車した。
「あと、さっきの、春香から聞いたってこと、ウソだから! 甘く切ない話、ありがと!」
蓮はあっけにとられた。そのまま開いた自動ドアを過ぎて降りて行った紗希を数秒の間眺め、我を取り戻した蓮は急いで彼女の後を駆けていった。
いつもの部屋に、紗希がいる。春香の部屋に集合した四人は、紗希の再会記念といったふうにお祝い気分の笑顔を浮かべていた。再会記念といってもそんな厳かなものでなくて、四つのグラスに、四人の会話が揺らすメローイエローの彩りがあって、氷とグラスが心地よい音を鳴らしていた。
「……では改めて! 紗希との再会を祝して!か――」
「かんぱーい!!」
伸明の声を遮って紗希がグラスを高々と振りかざす。伸明は先ほどから、ムードメーカーの座を紗希に奪還されて少々不満そうだった。そして紗希に何かいたずらしてやり返す方法がないか色々と探っている様子だった。
「――それでさ、あざがなかったからか、高校に入って同じクラスメイトだったのに、蓮に私だって気付いてもらえなかったんだよー」
「いや、そういうわけじゃ」
「でも、本当に綺麗になったよね。紗希ちゃんの右目」
春香のその言葉にひらめいたのか、伸明は急に前を向いて、息を整えてから静かに紗希に向けて言い放った。
「紗希の瞳が綺麗なのは、あの時から変わらないけどな……」
伸明に囁かれるように言われたその言葉に紗希はあっという間に、顔から火が出るほど恥ずかしがり俯いた。言った本人である伸明も少し恥ずかしがっているように見えたが、次の瞬間には蓮に向かってカメラのシャッターを切るジェスチャーをした。どうやら「シャッターチャンスだ」という合図らしい。渋々蓮はバッグの中からカメラを出し電源を入れた。旧式カメラがレンズを開く鈍い音にも気づかず、紗希は赤面のままいまだに、言い返そうとするも続かず俯いている。
そんな紗希に向けてシャッターを切る。シャッター音に紗希はぴくりと反応し、ゆっくりと蓮の方向に顔を向ける。伸明はこらえきれず吹きだして笑い声が響く。
「蓮……そのまま、逃げないでね……」
次の瞬間、紗希は蓮に向かって立ち上がり、その手の中にあるカメラ目がけて突進してきた。
「写真部初心者の癖に~!」
身の危険を感じた蓮はとっさにカメラを伸明の方に投げた。伸明は進路を変えた紗希の猛追を避けることができずに、カメラだけは渡すまいと防戦一方の押し合いで対抗する。そんな、懐かしいような風景を眺めながら春香がいたずらっぽい口調で言った。
「……まさか蓮がそんなことするなんてね~」
「ちがっ、伸明が撮れって言うから」
「蓮、パス! あっ」
投げようとした手から紗希は難なくカメラを取り、ボタンを操作し始めた。三人は液晶を覗こうと一斉に紗希のまわりに立った。
「えっ、ちょっと、削除……これどうやって削除するの! 蓮、教えてよ!」
「うーんどうしようかなー」
春香の部屋に、しばらくぶりの賑やかな笑い声が広がる。
年中のさくら組のままでも、いい。無理に自分たちの手で引き剥がしたって、求めるのは結局この四人なのだ。時が経って皆大きくなって自由の時間がなくなったとしても、ほんのちょっぴり会うだけで、それでいい。幼稚園の時からいつも一緒で、歩きながら繋いだこの手を今、放したくない。握り締めなくちゃ。
「あ……よし、やっと消せた!」
紗希の持つカメラの画面が切り替わり、そこには一つ前の写真が表示される。先ほど撮った写真。春香の家のそばにあるあの桜の前に、ある四人が立っている写真。もうすっかり夏に向けて葉をめいっぱいつけた桜が、その四人を支えるように立派に枝を広げている。
「思い出になる写真だね」
紗希がぽつり呟いた。その言葉に伸明は、もっと前のめりになるように液晶を見つめる。その影響で蓮は見づらくなって、ふらふらと画面を見る角度を変える。と、液晶画面に反射した春香の顔が映り込んだ。
「あっ」
同時に反応した蓮と春香二人が一瞬見つめ合う。じんとした胸の熱さがちょっと湧き上がってくる。そんなものがなんだかくすぐったくて、そして心地よかった。
一人では躊躇う、液晶に映る瞳も、皆笑い合って見ている。蓮は再び、紗希の手の中のカメラを見つめる。
これからは、ずっと、一緒に遊ぼう。四人で。
そのとき、古臭いカメラの液晶画面に、確かに見えた。
笑顔の四人の、瞳の輝きを。
1月31日から連載してきた「ファインダーの向こうの瞳」は、これで完結です。
僕が高二の三学期から始めたこの連載ですが、
今感じているこの青春の感覚も、時が経つと忘れてしまうかもと思い書き始めたこの小説。
青春の気分を少しでも味わってもらえたとしたら嬉しいです。
今まで読んでくださった方、ありがとうございました。




