伸明がみた春
9年前の春。桜で染まった幼稚園は卒園式の祝福ムードで溢れていた。高橋蓮たち三人を除いては。
伸明はあの日のことを、ゆっくりと話し始めていった。
「紗希がいないんだ。数日前から。明日はきっと元気に幼稚園へ来るだろって思いながら、ついに紗希のいないまま卒園式を迎えた。すっごく不安で、怖かったんだ。気が気でないまま俺達の周りでは着々と式が進んでて……。このまま、紗希が俺達の間から姿を消したらどうしようって、ものすごく不安だった。」
そして、伸明はとうとう……式が終わって園庭にお祝いの親や子どもが集っている幼稚園を抜け出した。この日が終わったらもう、終わりだと、一生会えなくなるんだと、勝手に伸明は思ったのだ。幼稚園のバスの窓から見ていた紗希の家まで、がむしゃらに走った。伸明はその幼い足と稚い腕を懸命に振って走り続けた。その幼さでまだ届かない所まで、伸明は追いかけてつかみたかった。いつでも紗希の前に負けてばかりいた伸明が、今日に限っては紗希の手をつかみ、引っ張ってでも幼稚園まで連れて行こうと、これまで続いていた不安な気持ちに対して強がるように思っていた。
それでもなお、小さな伸明の胸を圧迫する不安は肥大していった。走る脚を伝わる衝撃が、伸明の心臓の鼓動と合わさってぶつかって、苦しかった。それでももし会えなかったら、伸明は彼女に言いたかった言葉も言えずに、この先ずっとつらくて忘れられないだろうと思う伸明の口は、乾ききっても走るのをやめなかった。
やがて紗希の家が見えてきた。そこには、ちょうどその玄関から出た一人の女の子の姿があった。彼女は俯いたまま、こわばった表情をみせながら家の前に出てきた。
「おい」
伸明はしゃがれた声で、少し先に見える彼女を呼んだ。俯き加減だった紗希は、伸明を見てはっとした顔をみせた。
「なにしてたんだよ、きょうはそつえんしきだったろ」
紗希はまた俯いた。そんな彼女の姿に焦った伸明は、一瞬紗希が離れてしまうという錯覚に襲われ、胸に秘めていた言葉を放った。
「スキだ! 大きくなったらケッコンしよう」
小さな伸明が、考えに考えて出した言葉は、紗希の心を振り向かせた。紗希は驚いてはいたが、瞳の裏には少しの嬉しさも輝き始めていた。そしてそれを受け取った伸明は、今までの紗希のおままごとで覚えた言葉を使って叫んだ。
「おれ、さきの一番のダンナさんになるから!」
その伸明の言葉を聞いて突然、紗希の瞳に輝き始めていた光が消え、暗い闇がまとい始めていた。紗希はその唖然とした表情に、段々とその瞳に、涙が浮かび始めた。
「ほら、いこう。ようちえんでみんなまってる」
伸明が歩み寄り手を差し伸べた瞬間、紗希はその涙を隠すように伸明の手をはじき、伸明を突き放すように反対側へ走り去っていった。伸明は手を叩かれた感触をしばらくの間信じられず、認識したときには紗希はもう伸明の前からは消えていた。
理解できなかった。はじかれた自分の小さな手を見て、伸明は一人涙を流しそうになった。その涙を堪えるように、伸明は紗希の走っていった方向へ歩き出し、彼女を探し始めた。
道の曲がり角から、元気な紗希がひょっこり出てきてくれるということを期待して、伸明は町中を駆け巡り探し回った。しかしそんな彼を、道の角はどこまでも裏切り続けた。探し続けるうちに、彼の中に想っていた紗希の男勝りな姿はほとんど消えかかっていた。先ほどの彼女は、伸明のみていた紗希のどんな姿よりも晴れていなかった。以前まであった彼女の元気な、伸明がどんなに抵抗しても弱気をみせない大きな風格に、伸明は引け目を感じてはいたが同時に、心を惹かれる何かを感じていた。しかしさっき目にした彼女は、伸明が心惹かれる彼女ではなかった。そして彼女はついに一言も残さずに小さく伸明の前から逃げたのだ。そんな紗希のことを考えると、伸明は段々と怒りを抱えるようになった。
しかし、伸明は怒りを覚えてからもなお、紗希を探していることに浮遊感のようなものを感じていた。紗希はいつか見つかる。元気な紗希の姿は、後で絶対に見られるはずだと、伸明は信じて疑わなかった。そうして、紗希の存在をとりあえず確認したことによる安心感と、そこからうまれる浮遊感が、紗希のことを探し回る伸明を制していた。
しかしそんな浮遊感は長くは続かなかった。幼稚園からいなくなった伸明を心配して探していた彼の母親に見つかったのだ。そしてその瞬間、伸明の間には喪失感が埋め尽くされた。親の諭す言葉も伸明の耳には入らなかった。紗希を探すときに感じていた楽しさは一瞬にして消え去り、それからまた怒りの思いが伸明の心に台頭したのだ。
母の手に引っ張られて伸明は自分の家に帰った。心配していた親のうるさい忠告を潜り抜けて伸明は二階へ上がった。寝室の毛布に顔をうずめ、布団を力なく叩いた。やり場のない怒りで伸明はその小さい体を布団にうずめ、見失った紗希の顔を思い出していた。
そうしているうちに時間は過ぎ、伸明にはいくつかの気力も残されていなかった。その時、家に電話が鳴ったのだ。紗希のことかもしれない。伸明は小さな期待を膨らませながら、そっと階段を降りて電話に出た母の話に聞き耳を立てた。
「……児之原さんの……うん、お亡くなりになったって……交通事故で」
そこで聞いた言葉は伸明が耳をふさぎたくなるようなものだった。
もしかして……紗希が死んだ……?
紗希があの時走って逃げて行った、その後に事故に遭ってしまったと、伸明は子供心に考えていった。ニュースでみたような事故の記憶が脳裏に浮かぶ。うそだ。そんなはずはない。伸明がそう思えば思うほど、精神的に追い詰められていった。そして浮遊感の中探し回っていた少し前の自分に極めて罪悪感をおぼえ、伸明は抱えきれない自己嫌悪に溺れて耐え切れずに頭を抱えた。
うそだ。
伸明は「紗希が死んだ」という自分の認識から逃げ、目を背けていった。




