嵐に切り裂かれて
蓮には、どう思慮をめぐらせてみてもわからなかった。春香が、自分を家に呼んだことが。
この前三人で会い、伸明が出た後に二人は残った。あの時の彼女の言葉が今にも自分の胸を反響して占領しそうだった。あの日と同じように、今日も自身の望む方向に進展したら……と蓮は充実感の飽和と後ろめたさの拘束で我を忘れた。
扉を開けると、春香がいつもと変わらない静かな笑顔で迎えてくれた。
「ごめんね、急に呼んじゃって」
「大丈夫。今日は何もなかったから」
春香は地元の高校の制服を着ていた。色も種類も違う制服を着た二人は、机を中央にして向かい合わせで座った。
蓮はまるで春香の部屋に初めて来たときと同じような緊張の感覚を覚えていた。今までに見ていたこの部屋のすべてが変わって見え、期待と膠着が入り混じったような雰囲気に襲われた。
「少し、蓮の顔が見たいなって思ったから」
「あぁ……」
「そうだ。この前蓮の高校で鎌倉行ったんでしょ? その時の話聞かせてよ」
蓮は頷いて話し始めた。話してから気づいたが、蓮はこのようなことに慣れていなかった。誰かから話すことを期待され、それに応えて話すことは、三人の集まりの中でもそうなかった。いつも、ムードメーカーである伸明が先陣を切って話していたからだ。それが、春香だけの前で話すなんてなおさら慣れないことで、妙なところをくすぐられる思いがした。
「へぇ、なんか私も江ノ電乗ってみたくなっちゃった」
この期に及んで、紗希のことを話さない自分がいる。春香の想いを握る機会を捨ててまで、紗希のことを切り出す必要はないと断言する演説家が、胸の内で言葉の槍を降らせている。
「……やっぱり、蓮といると安心するなぁ」
春香のその言葉に蓮は引っかかる思いが拭えなかった。はたして春香は本当に、自分に好意を寄せているのか。春香が伸明に想いを寄せていた頃、彼女にはやはり、一緒にいる時の安心感を重要だと思っていたのかは推し量れない。そんな不安にさせる彼女の言葉が、蓮を前のめりにさせていくのだった。
「……僕も、一緒だよ。春香とずっと一緒にいたい」
そう言って蓮は春香を見つめる。そしてすぐに目を逸らした。無理だ。蓮はこの恋を強制的に推し進めることに考えはできても実行も制御もできない。そう気づき始めていた。
「うん。私も一緒にいたい」
その言葉を聞いても蓮は春香の方を向けなかった。
「……でも、蓮と伸明とも、三人でも、ずっと、ずっといつまでも一緒にいたいの……」
蓮は無言で頷いた。その気持ちも、自分の中に絶対あるはずだった。しかし今では、春香のことを優先する権力者が、その願いを少数派に追いやっていた。
「……昨日、伸明と道でたまたま会ったんだ。その時、伸明は私に向けて怯えたように話すの……絶対、何かがおかしいって、思って……」
怯えたように話す……伸明は春香に、恋愛に意識して話しているのかもしれないと直感した。それならば、もう何かの拍子に伸明が春香に対して大きなアクションを起こしてしまっておかしくない。蓮の中で勝手に危険信号が鳴り始め、得体のしれない焦燥感に背中を押されていた。
「……それは、きっと何かに急いでたんだろう。気にすることないよ」
「……そうかな。この前、家に来たとき、途中から少しいつもの伸明じゃない気がして」
「あ、あぁ……それは、ちょっとその時伸明から悩みを相談されて。今はもうきっと解決してるはずだよ」
それでも春香は腑に落ちない顔をしていたが、口を開かずに黙りこんだ。それでも、蓮は自分で恥ずかしくも感じる言い訳の言葉が止まらなかった。
「やっぱり、昔の想いを捨て切れてないんだ」
「違う、伸明のことを好きだった頃に未練抱いてるわけじゃない。でも、」
「あいつのことはいいじゃないか。それよりも――」
瞬間、大きな雷がそう遠くない場所で鳴った。響きに遮られた蓮は、その直前発していた言葉に究極の後悔を感じられずにはいられなかった。
ほどなくして雨が降り始める。すぐに雨脚が強まって、部屋の外が水に冷やされていく。
窓の外を無言で覗く春香の後ろ姿に、蓮は小さく、
「……ごめん」
と声をかけた。
雨が止む気配は少しもなく、ただ強い雨が降り続けていた。暗くなる直前まで春香の家で待機することにしていたが、とうとう6時を過ぎた。
「……もう、暗くなるな。帰らなきゃ」
蓮は傘を持っていなかった。春香は自分の白い傘を使うよう蓮に言った。
「ありがとう。じゃあ、借りるね」
「うん。気を付けてね」
春香は玄関先の、雨に濡れるギリギリのところまで立って見送ってくれた。
……そんな春香を、僕はたぶん傷つけたのだろう。
春香の、三人を大切にする気持ちはわかっているはずだった。しかし春香が伸明のことを話すと、どうにも蓮の中で煮え切らない思いがふつふつとこみ上げてくるのだ。そんな自分を蓮は心底嫌った。突き放したかった。
そんな、自責から生まれる気分を抑えるようにして、雨粒を蹴るように歩いていると、前方から誰かが歩いてくる足が見えた。傘を少しだけ上にあげると、蓮と彼は次の時にお互いの顔を見合わせた。
その瞬間、蓮は戦慄した。
「伸明……」
降り続ける雨が、その場に立ち尽くす二人の傘を鳴らしていた。




