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あざ

 滲み出る悔しさの色を隠した隆を残して、八巻は足早に教室を出た。蓮は慌てて後をついて行くが、いったいどこに向かっているのか見当もつかなかった。狭い階段を降り裏玄関から外に出たところで蓮はとうとう口を開いた。

「あの、どこ行くんですか」

 八巻はその場で立ち止まりあたりを見回してから、頷いた。

「……そうね。ここでいいかしら」


 人気が少ない、教室から遠く離れたこの裏階段に連れ込まれたわけを蓮はまったく知らず、そして身に覚えもなかった。それも昨日初めて話したくらいである。もしかして隆との誼で何かよくない噂を流されているのか、そんなことまで考え始めた自己に押し潰され、前のめりになるように蓮は八巻より先に口を出した。

「ええと、何の用です」

 言った蓮に八巻は眉尻を下げ少し困った顔を向けた。

「敬語はやめてくれないかしら。だって同級生よ」

「そ、そうだよね、ごめん」

「分かってくれればいいんだけど」


 今まで、クラスメイトも時々八巻に敬語で話しかけているのを見かける。八巻の凛々しい顔立ちがある種の強面にも見えてしまうのだろう。蓮から目をそらした八巻の顔は、そんな印象を持たれることに悩んでいる表情にも見えた。


 再び視線を向けなおした彼女は、さて、と覇気を出してやっと話し始めた。

「あなたのことは紗希からよく聞いているわ。幼稚園の頃の友達だって」

 蓮はどうも、と小さく頭を下げた。

「昔はあなたを含めた四人でたくさん遊んでいたそうね」

「あぁ……そうなんだ」

「その時のこと、嬉しそうに私に話すのよ。まさかまた会えるなんてって」

 聞いた瞬間、蓮はハッと顔を八巻へ向けた。

「もう二人のこと……伸明君と春香さんと言ってたかしら。会えるといいなって、今までにないくらい輝いた瞳で、私に言うのよ」

 返事ができない。紗希はずっと、蓮にその気持ちを隠して、二人のことを言わずにいた。いや、言わなかったのではなく、言えなかったのかもしれない。


 蓮はずっと、紗希が二人のことを言葉に出さずにいることに何かわけがあると感じていた。しかし肝心のその理由を蓮はまったく知ることができなかった。彼女は、二人のことを話したくなかったから話さなかったのではなく、話したかったのに話せなかったのだ。紗希があの二人を避けているかもしれないと思ってしまった、だから自分から二人のことを話し出せなかった。紗希が隠していた気持ちを知らずに自分がしていたことに蓮は酷く悔恨した。


 悲傷の表情で蓮は八巻を向くと、彼女はそれをそっと享け込むように静かに頷いた。

「あの子は……ちょっと、小学生の時に色々あったのよ」



 私が紗希と初めて会ったのは、小学一年生の時。私たちの地域の幼稚園から来た子じゃなかったから初め友達はいなかったんだけど、本当に明るくて元気な子だったからすぐに友達が増えていった。

 紗希がクラスの中心人物にまでなる勢いだったある日、私たちのクラスでは自己紹介のプリントを書くことになった。そのプリントには「いちばんすきなもの、こと」を書く欄があった。だけど紗希はその欄には何も書かずに提出したの。後で先生がそのことを指摘したら、紗希がいきなり先生に噛み付いたの。ものすごい勢いで、先生に反抗心を見せた。それまでの明るい彼女の姿とはかけ離れてた。それは、彼女の触れてはいけない事だったように、私には感じた……。

 とにかくその一件があってから、クラスのみんなが紗希から離れちゃって。紗希が話しかけても、みんな避けるようになった。そして、最終的にはいじめる人まで現れた。彼女の……右目のあざを種にして。段々とクラス全体が彼女のいじめへと発展していった。



「なぜそんなことになるのか、私は理解できなかった。私は精一杯、紗希をいじめる者と戦った」

「八巻さんが、紗希の唯一の味方だったんだね」

「……紗希は、大丈夫だからと私をなだめたけど……私はそれを信じてはいけなかった」



 小さないじめ、それは時が流れることを忘れずに少しずつ、長く続いた。紗希の母が学校で起こっていることに気付くまで、多くの時間を要した。紗希はずっと胸にしまいこんだまま黙っているし、担任の先生だって紗希の表向きの「陽気な性格」を信じてクラスに馴染んでいると疑わなかったからだ。


「どうして今まで黙ってたの」

「……べつに。仲間外れになんてされてないよ」

「じゃあこれはなに……」

 母が指を指した先、紗希のプリントには「おばけおんな」と、右目のあざを現す絵を落書きされていた。

「それはっ、違うから!」

 母は、逃げ出そうとする紗希の肩をがしっと掴んだ。

「もう我慢しなくていいから。辛かったこと、全部吐き出していいから……」

 その言葉を聞いた瞬間、紗希はその瞳を母に向けた。頷いた母を見た時、紗希は声を上げて泣きじゃくり始めた。母は彼女を抱きしめながら、あざを消す治療を受けさせると決意した。



「あの子は、表では気丈に振る舞っているように見えて、実は胸の中に色々ため込んじゃう子だから……いつもどこかで遠慮してはいないか、ずっと心配に思っちゃうのよ」

 八巻の言葉に蓮は心をえぐられる思いだった。

「その……伸明君と春香さんという方は、今も元気なんでしょう?」

「う、うん」

「高橋君たちの仲に横槍を入れるようで、厚かましいようなお願いで申し訳ないのだけど、なるべくその二人と、高橋君と紗希で一緒に会う機会を設けてくれないかしら」

「あぁ……はい、そうだね……」


 昨日、ファインダーの向こうに見た先の瞳の寂寥が、蓮のえぐられた心を駆り立てる。


「分かった。すぐそうする」

 真実は伸明のみが握っている。


 蓮は、伸明の想いと紗希の寂寥に押し潰され、そして自分を見失いかけていった。

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