36話 彼女に笑ってサヨナラを
ある日の夕刻、その知らせは突然訪れた。
それは、ティアラの婚約話。アクアラルーン国の第四王子を婿として受け入れることが、決定したらしい。近々忙しくなるから気を引き締めろ、と言い残して部屋を出て行った大臣の背中を、俺達はただ無言で見送ることしかできなかった。
ティアラはそれ以降何をするでもなく、ただ椅子に座り、唇を噛んで俯いていた。
どれくらい時間が経っただろうか。不意にティアラが、小さく震える声で呟く。
「一言くらい、言って欲しかったよ、お父様……」
そんな彼女に俺達は誰も話し掛けることができないまま、ただ刻々と時間だけが過ぎ去っていった。
結局あれから俺達とティアラは一言も話さないまま、夜の帳は落ちてしまった。
「マティウス君……」
「…………」
同情か悲しみか。部屋を出て間も無く、タニヤが悲愴な面持ちで俺の名を呼ぶ。いつもは無表情のアレクも、今は眉間に皺が寄っていた。
「そんな顔すんなよお前ら。俺は大丈夫だから。そしてティアラも大丈夫だ。明日にはいつも通りになっているだろ。いずれこうなることは、わかっていたからさ……」
そう、わかっていた。
彼女は王女。俺はただの護衛――。
彼女との幸せな未来は約束されていないと、わかっていた。
……頭ではわかっていた。わかっていたはずなのに――。
それでも、彼女と離れたくないと、できればずっと隣にいたいと、心では願ってしまう。
俺はその自分の心がやけに醜く思えてしまった。そして、そんな醜い心をこいつらに悟られるのが何だか嫌で――。
気付いたら俺は二人を置いて、駆け出していた。
悪い知らせというのは重なるものなのだろうか。それともどこかの国で祀っている『運命の女神』が、わざとそういうふうに仕向けているのだろうか――。もしそうだとしたら、俺はその運命の女神の眼前で、思いっきり親指を下に向けてやりたい。
城の廊下を駆け抜け真っ直ぐに自分の部屋へと向かっていた俺だったが、部屋に入る直前、見慣れない一人の男に突然声をかけられた。
「マティウス・ラトヴァラか?」
「……そうだが」
髪と同色の茶色の顎髭を生やした屈強な男。三十代らしきその男は、背中に大剣を背負っていた。城の兵士ではないことは一目瞭然だが、この男は一体? 俺の名前を知っているようだが、もしかして警備隊の奴か?
奇異の眼差しを注ぐ俺に対し、その男は頭を掻きながら口を開く。
「お前のところの警備隊長がちょっとやらかしてな――。まぁ単刀直入に言うと、降格という処分を下されたわけだ。そして新しい警備隊長として俺が任命された。ファンネル・ダルオルという。よろしくな」
そう言いつつ、ファンネルとやらは俺に手を差し出してきたので、流れにそってそれに応じる。
そうか……。確かにあの警備隊長のおっさん、昼間から酒の臭いを撒き散らしていたしな。やっぱそうなったか。
「それで挨拶に回ってんのか? わざわざこんな所までどうも」
「今日俺がここに来たのは、挨拶をしに来ただけではない。お前個人に用があったからだ」
「俺に?」
「あぁ。お前、元々は国境の警備を希望していたみたいだな」
ファンネルのその言葉は氷柱となって、俺の心に深く突き刺さる。
……頼む。その先は言わないでくれ。これ以上、俺を彼女から遠ざけないでくれ――。
「引き継いだ書類を整理していて見つけたんだ。お前の書類が別の場所に紛れていた。一見してすぐにわかったんだが、それが今まで放置されていたこと自体が嘆かわしいよ」
俺の願い虚しく、ファンネルは淡々と事実を――ごく当たり前のことを、俺に告げ続ける。
「本来、この城に来る予定だった奴とも先ほど話をつけてきた。お前とそいつとの入れ替わりの手続きも、俺が責任を持って執り行おう」
そこまで言い切るとファンネルは柔和な面持ちを作り、俺に向けた。
「希望場所での警備ではなかったのに、今までご苦労だったな。感謝する」
俺はファンネルの労いの言葉に何も反応することができず、ただただ、放心していた。
自分のベッドの端に腰掛けた俺は、項垂れたまま何もすることができないでいた。この狭い部屋とも突然今日でお別れになってしまったが、どうしても片付ける気力が湧いてこない。代わりに頭に浮かぶのは、ティアラの柔らかな笑顔――。
俺と彼女は、本来ならすれ違うことすらなかった関係。ただ運命の悪戯で、俺は少し道から逸れてしまった。その本来の道筋に戻るだけの話だ。何もおかしいことはない……。
刹那、俺の脳裏にこの城に来てからの出来事が、まるで走馬灯のように駆け抜けていく。
ウルサくて、楽しくて、馬鹿馬鹿しくて、たまに悲しくて、でもやっぱり楽しくて――。
この城に居た日々は……彼女と過ごした日々はまるで夢のような時間だったと、いずれ笑って話せる日が来るはずだ。そう、だから――。
だから今だけは、泣いてもいいよな……?
自分に対して言い訳をしたあと、俺はベッドに顔を埋め、心のままに全てを吐き出した。
翌朝、荷物を背負って部屋に現れた俺を、ティアラはいつもと同じように迎え入れた。
ティアラも自分の立場は充分わかっている。わかっているからこそ、俺に何も言うことができないのだろう。
「それにしてもさぁ、代わるにしても突然すぎるでしょ……」
部屋に入って間も無く、タニヤが不満げな顔で俺に向かって呟いた。
「まぁ仕方ねーよ。俺、元々ここに来る予定じゃなかったんだしさ……」
「そんなこと聞いてなかったんだけど」
「オレもそれは初耳だな」
腕を組んで壁際にもたれかかっていたアレクも、タニヤの言葉に同調した。
「そりゃ、言ってなかったし」
「何よそれ」
タニヤは頬を膨らませると、腰に手を当てて俺を睨む。アレクも眉をピクリと跳ねさせ、いつもより若干鋭い目付きで俺を見ていた。こんな顔を向けられておきながら、こいつらが俺との別れを惜しんでくれているという感情が伝わってきて、少し嬉しかった。
さっき、俺と入れ替わりで護衛になる奴に引継ぎを済ませてきたところだ。本来ここに来るはずだったのは、二十代後半の藍色の髪の男だった。名前は聞いたけど忘れた。俺と違って礼儀正しそうな奴だった。顔もなかなかのものだったが、彼女がいるって言っていたから、その点は安心だ。
「何を言っても、もう決定したんだから仕方ねーだろ。てわけでお前ら、今まで世話んなったな」
口の端に小さな笑みを浮かべながら放った別れの言葉に、不満顔だったタニヤとアレクの表情が若干緩んだ。
「……短い間だったけど楽しかったわよ」
「思い返してみると、かなりお前に遊ばれてたよな俺……」
「んー? 何のこと?」
タニヤはニコニコと笑顔でしらばっくれやがった。最後までこの調子かよこの侍女。まぁ、こいつらしいっちゃこいつらしいけどさ。
「アレク。後のことは頼む」
「任せろ」
アレクは短くそう言うと、ほんの少しだけ俺に笑顔を見せる。お前になら俺も安心してティアラを任せられるよ。――と言いたかったけど、直前で恥ずかしくなったのでやっぱりやめた。
二人に挨拶を済ませた俺は、ずっと無言のままのティアラの前に静かに移動する。ティアラは視線を下に落としたまま、ただ立ち尽くすばかり。小柄な彼女の身体がさらに小さく見える。
「あー……。えっと、その……。王子は若いし、文武両道の良い男らしいな」
どう彼女に話しかけたものかと逡巡した結果、俺の口から出てきたのは彼女の夫となる王子のことだった。刹那、ティアラの肩がピクリと震える。
「ハゲ頭の貴族のおっさんじゃなくて、良かった良かった」
少しおどけながら言った俺の言葉に、ようやくティアラは顔を上げ、小さく笑ってくれた。ちなみに今のは冗談なんかではなく、俺の本音でもある。
「大丈夫だ。性格も良いと評判の良い王子みたいだし――ってティアラは会ったことあるんだっけ? ならきっとティアラを幸せにしてくれるし、幸せになれる」
ティアラは純粋無垢で可愛いし心優しいから、王子とやらもきっと彼女に夢中になるに違いない。だから絶対にティアラを幸せにしようと思ってくれるだろう。……思わないと許さない。
俺はそこでティアラとの距離を詰め、片手を彼女の頬に当て、自分の方へと視線を向かせる。彼女の月のような神秘的な瞳を、目に焼き付けるために。
「今まで、ありがとうな……」
俺に好きという感情を教えてくれてありがとう。優しくしてくれてありがとう。一緒に笑ってくれてありがとう。落ち込んだ時慰めてくれてありがとう。そして、こんな俺を好きになってくれて、ありがとう――。
様々な意味のありがとうを、ただその一言に集約させた。
俺はティアラが好きだ。本当に大好きだ――。これからもずっとその気持ちは変わらないだろう。それでも、俺は彼女と別れなければならない。行かなければ、ならない。
「わ、私も、あ、ありがとう……」
目の端に涙をいっぱい溜めて、ティアラは俺を見上げる。それにつられてしまいそうだったので、俺は指でそっと彼女の涙を拭った。俺は昨日の晩から決めていた。彼女との別れは、笑顔ですまそうと。だってこの別れは、互いの気持ちが離れたからではないのだから。
「……元気でな」
ティアラの桃色の頭を二、三度撫でた俺は、そこで彼女に微笑んだ。
「うん……」
ティアラは小さな両手で俺の手を取ると、甲に軽くキスを落とし、小さく笑った。しかしその自分の行動に照れてしまったらしく、瞬時に顔に赤みが射す。……うん、やっぱり彼女は可愛い。
脳裏に今の笑顔と照れ顔を焼き付けて、俺は踵を返し部屋を後にする。
振り返ってはいけない。振り返ったら俺は動けなくなってしまうだろう。だから今はただ、前を向いて歩かなければならない。
次第にぼやけてくる視界を晴らすため、俺は手の甲で乱暴に目元を拭う。あぁもう。俺、ここに来てから涙腺緩みすぎだっての。
弱い自分の心に憤りつつ廊下を歩きながら、俺はあることが気になっていた。
俺は別れ際、ちゃんと笑えていただろうか。彼女が今まで俺にたくさん見せてくれた笑顔みたいに、上手く笑えていただろうか――。




