第5話 深夜の攻防
非効率だ。俺が手伝う。
その言葉の意味を処理するのに、わたくしの脳はコンマ数秒を要した。監査役が、監査対象の業務を手伝う。それは、コンプライアンス的にどうなのだ。いや、この世界にそんな概念はないか。
わたくしの内心の葛藤をよそに、レオンハルトは躊躇なく執務机の対面に腰を下ろすと、羊皮紙の山の一つに手を伸ばした。
「……監査役の職務では、ないはずですが」
「非効率な状態を放置することは、俺の信条に反する。それに、正確な監査を行うためには、まず対象が正確に整理されている必要がある。これは、そのための事前準備だ」
実に彼らしい理屈だった。反論の余地がない。可及的速やかにこの男を追い出したい。そう思っているのに、この業務効率の改善という提案を拒否する選択肢は、わたくしの中には存在しなかった。
こうして、わたくしたちの奇妙な共同作業が始まった。
それは、攻防と呼ぶにふさわしいものだった。わたくしが前世の知識に基づき、「これは年代順、これは項目別にファイリングします」と指示すれば、彼は驚異的な記憶力と集中力で、瞬く間に羊皮紙の分類を終えていく。騎士団の兵站管理で培われた能力だそうだ。彼の仕事は、正確無比な機械のようだった。
一方でわたくしは、彼が分類した書類に索引をつけ、相互参照が可能なデータベースを構築していく。
「この『さくいん』とやらは、確かに合理的だ。検索性が格段に向上する」
「ええ。情報の価値は、いかに迅速にアクセスできるかで決まりますから」
忌々しい。実に忌々しいことに、彼とわたくしの相性は、最高のビジネスパートナーのそれだった。わたくしが戦略を立て、システムを構築し、彼がそれを完璧に実行する。憎らしいほどに、噛み合っている。
何時間そうしていたか。蝋燭の芯が短くなり、窓の外が完全に闇に沈んだ頃、ようやく最後の羊皮紙を所定の場所に収め終えた。あれほど混沌としていた執務室が、嘘のように整然としていた。
達成感と疲労感が入り混じる中、わたくしは立ち上がった。
「……夜食でも、いかがです?」
それは、ほとんど無意識に口から出た言葉だった。監査役に対するものでも、ビジネスパートナーに対するものでもない。ただ、共に一つのタスクをやり遂げた、一人の人間に対する、ごく自然な提案。
わたくしたちは、館の簡素な厨房へと向かった。暖炉に火を熾し、先日収穫したばかりのジャガイモで、簡単なスープを作る。味付けは岩塩と、庭に生えていたハーブだけ。王都の食卓では考えられないほど、素朴な食事だ。
無言のまま、向かい合ってスープをすする。暖炉の火がパチパチと爆ぜる音だけが、静寂を破っていた。
ふと顔を上げると、レオンハルトが、その鋼色の瞳で、じっとスープの入った木椀を見つめていた。その表情は、いつもと変わらない。だが、その肩から、ほんの少しだけ、力が抜けているように見えた。
彼がゆっくりと顔を上げる。その瞳が初めてわたくしを、監査対象としてではなく、ただのエリアーナとして捉えているような、そんな錯覚を覚えた。
穏やかな、とさえ言える空気が、二人の間に流れ始めた、その時。
彼が、静かに口を開いた。
「短期間での、この領地の収益改善率は異常だ。王都の誰かが、これを脅威に感じるだろう」
その言葉は、温かいスープで満たされていたはずのわたくしの胃の腑を、一瞬にして凍てつかせた。




