第7話 過去との対峙
領主の館の作戦司令室――聞こえは良いが、実態は古文書の黴臭い匂いが染みついた物置部屋だ――に、重い沈黙が垂れ込めていた。
揺れる蝋燭の光が、集まった者たちの顔に、疲労と不安の影をまだらに落としている。王国の正規軍が、反逆者の汚名を着せられた我々を討伐しに来る。戦力差は絶望的。状況は、控えめに言って、詰んでいた。
ところが、わたくしの脳内は奇妙なほどに冷静だった。
これは危機だ。
危機とはすなわち、既存のルールセットが通用しない、新たなゲームの始まりに過ぎない。転生前の記憶のせいで、そう考えてしまった。
「皆様、お静かになさい」
わたくしは広げられた地図の上に指を置いた。
ギデオンをはじめとする村の主だった者たちが、一斉にこちらを向く。彼らの目には、恐怖よりも、わたくしへの期待の色が濃い。なるほど、従業員エンゲージメントは極めて良好。素晴らしいことだ。
「籠城は最善手ではありません。時間稼ぎにはなりますが、最終的な敗北という結果を先延ばしにするだけの、非効率な選択です。我々の目的は、生存ではなく、勝利。そのためには、ゲームのルールそのものを変える必要がある」
「エリアーナ様、それは一体……」
不安げなギデオンの声を、わたくしは手で制した。
「この戦は、物理的な戦闘力で決着がつくものではない。情報戦です。敵の総大将は、アルフォンス殿下。だが、彼を動かしているのは、宰相マイズナー。そして、最終的な意思決定権者は、国王陛下。ならば、我々がアプローチすべきは、末端の兵士ではなく、最終承認者である国王陛下、ただ一人」
わたくしは地図の一点を、強く指し示した。王都アウレリア。
「この包囲網を突破し、王都へ向かいます。そして、国王陛下に会って、直接真実を訴えるのです」
部屋がどよめきに包まれる。
無謀だ、と。
自殺行為だ、と。
その声がさわさわと空気を震わせた。
「危険は承知の上です。ですが、このまま籠城した場合の敗北確率は、限りなく十割に近い。しかし、この直接交渉が成功すれば、勝率は五割以上に跳ね上がる。どちらが合理的な判断か明白でしょう?」
わたくしの言葉に、ギデオンが、村人たちが、顔を見合わせる。やがて、ギデオンが深く頷いた。
「……エリアーナ様の策は、いつも我らの想像を超える。その策が我らを救ってきたのも事実。……分かりやした。この命、お嬢様にお預けします」
その言葉に、他の者たちも次々と頷き始める。彼らの信頼。それは、わたくしがこの地で築き上げた、何よりも価値のある無形資産。この信頼という名の投資に、わたくしは、最高のリターンで応えなければならない。
「ありがとうございます、ギデオン。ですが、あなたの役目は別にあります」
わたくしは皆の顔を見渡し、はっきりと告げた。
「王都へ向かうのは、わたくしとレオンハルト団長のみ。これは敵の目を欺き、迅速に行動するための策です」
わたくしは、ギデオンの目を真っ直ぐに見つめた。
「ギデオン、あなたは残った皆を率いて、このノルドクレイを守り抜いていただきたい。我々が王都で交渉している間、敵の猛攻を耐え抜く。籠城戦の指揮を、あなたにお任せします。……よろしいですか?」
ギデオンは、一瞬目を見開いたが、すぐにその意味を理解し、力強く頷いた。
「……承知いたしました。エリアーナ様が帰られるまで、このじじいが、命に代えても、この村を守り抜いてみせましょうぞ」
王都へ向かう決死隊と、領地を守る籠城組。二つの戦線で、同時に反撃の狼煙を上げる。それが、この絶望的な状況を覆す、わたくしの描いた唯一の勝利への道筋だった。
*
作戦会議が終わり、人々がそれぞれの準備のために部屋を出ていく。
レオンハルトは壁に寄りかかったまま見送っていた。エリアーナの緊張を帯びた横顔が視界の端を過ぎる。誰もが来るべき戦いに向けて己の役割を果たそうとしている。
ならば、自分もまた、果たさねばならない責務があった。
過去という名の、最も重い罪の清算を。
やがて最後の一人が退室し、扉が閉まる。部屋にはレオンハルトとギデオンだけが残された。訪れた静寂の中、レオンハルトはゆっくりとギデオンの方へ向き直った。
「話がある」
館を出たレオンハルトは、村の片隅にある小さな墓地へと歩を進めた。夕暮れの赤い光が、風化した墓標に長い影を落とし、過去の悔恨そのものを形にしていた。彼はそのうちの一つ『ルドルフ』と刻まれた墓石の前で足を止める。背後で杖が土を踏む乾いた音がした。ギデオンが佇んでいる気配がする。
「……ギデオン殿」
口から出た自分の声は、いつもと違っていた。喉の奥が錆びついた鉄で擦られるように痛んだ。
「ルドルフは、優秀な騎士だった。俺の最も信頼する副官だった」
ギデオンは何も言わない。その沈黙が、裁きの前の静寂のように、レオンハルトの肩に重くのしかかる。
「二年前、西部の山岳地帯での任務中、俺の判断ミスで、部隊は敵の罠に嵌った。撤退すべき状況で、俺は功を焦った。……ルドルフは俺を庇い、殿を務め、そして……命を落とした」
レオンハルトの記憶。あの日の光景が焼き付いて離れない。煙の匂い。怒号。そして、血に濡れながらも、安堵したかのように見えた、ルドルフの最期。視界が白く染まり、息が詰まる。あの時、レオンハルトが感情に流されさえしなければ。秩序と規定を絶対のものとして非情に徹していれば、彼は死なずに済んだ。
「全ての責任は、指揮官である俺にある。貴殿の息子を死なせたのは、俺だ」
レオンハルトがゆっくりと膝をつく。
深く、深く、頭を垂れた。
白銀の鎧が土の匂いを吸い込む。
頑固な老人の前で、氷の騎士と呼ばれた男は、ただの罪人として地に伏していた。
永遠に続くかと思われる沈黙が、墓地を支配した。風の音だけが、レオンハルトの罪を責め立てるように耳元を通り過ぎていく。やがて、節くれだった硬い手が、彼の肩に、そっと置かれた。
「……顔を上げなされ、アードラー団長」
その声は震えていた。だが、レオンハルトが覚悟していた憎しみの響きは、そこにはなかった。
「息子は、騎士として務めを果たした。尊敬する上官を守れたのなら、あいつは本望だったでしょう。……息子の死をあんた一人のものにするんじゃねえ。あいつの誇りまで、奪うことになる」
ギデオンは杖を強く握りしめた。
「あんたが今すべきことは、過去に囚われることじゃねえ。……この土地とエリアーナ様を、息子の分まで守り抜くことだ。……分かったな」
ギデオンの言葉が、レオンハルトの凍てついた心に、熱い楔を打ち込んだ。ゆっくりと顔を上げる。許されたわけではない。だが、進むべき道が示された。鋼色の瞳の奥で、忘れかけていたはずの、騎士としての誓いの炎が再び燃え上がった。
*
レオンハルトは館に戻り、作戦司令室と化した執務室の扉を開ける。エリアーナが地図を前にしてこちらを向いた。彼女の瞳に映る不安を、今度は自分が拭わなければならない。
「準備はできた。行くぞ」
レオンハルトは短く告げた。その声に、もはや過去の罪に起因する迷いは、一切含まれていなかった。守るべきもののために、ただ、剣を振るう。それだけだった。




