第6話 内なる敵
三日後、ノルドクレイに、歓喜の声が響き渡った。
隣国軍が撤退を開始したのだ。策が成功した。内部からの不信感に耐えきれなくなったゲルハルト・シュトライバー将軍は、全軍を退かざるを得なかったのだ。
村の広場では領民たちが手を取り合って、つかの間の勝利を祝っていた。わたくしは、その光景を、領主の館の窓からただ静かに眺めていた。
これが成果……。
数値化できない価値……?
わたくしの胸に、これまで感じたことのない、温かい何かが込み上げてくる。この感情を、どう分析すればいい。どう、分類すれば……。
非効率な思考に、自嘲の笑みが漏れた。
その時、背後にレオンハルトの気配を感じた。
心臓が跳ねる。
いつの間に……。
「……見事な策だった。密使も無事に解放された」
彼の平坦な声には、賞賛の色が滲んでいた。
「ええ。全て計画通りです」
そう答えるのが精一杯だった。この男の前では、どうも思考パフォーマンスが著しく低下するのだ。
*
王都アウレリア。宰相マイズナー侯爵の執務室は、冷たい静寂に包まれていた。
彼はノルドクレイからの報告書を、暖炉の火の中に、ゆっくりと投じた。羊皮紙が音もなく炎に呑み込まれていく。
計画は失敗した。あの小娘、エリアーナ・フォン・ヴァイスフルト。そして、彼女に与する氷の騎士。彼らはマイズナーの想定を遥かに超える脅威となった。
だが彼は動じない。一つの策が失敗したのなら、次の策を実行するまでだ。
彼は部下を呼びつけると、一枚の羊皮紙を無造作に手渡した。
「これをアルフォンス殿下の元へ届けよ。内容は『ノルドクレイに関する緊急のご報告あり。すぐにお時間をいただきたい』と。……ああ、そうだ。これを添えるのを忘れていた」
マイズナーは机の引き出しから、隣国の紋章が押された偽造の密約書の写し――本番で使うものとは少しだけ違う、地ならし用のカード――を取り出すと、それも部下に渡した。
「まず、恐怖という名の前菜で、彼の舌を慣らさせてもらう。主菜を味わうのは、この私が相伴に与る席で、としようか」
その口元には、ゲームを楽しむ支配者の、冷酷な笑みが浮かんでいた。
*
数時間後。王宮の一室で、アルフォンス王太子は、事前に届けられた密約書の写しを前に、なすすべもなく顔を青ざめさせていた。そこに、タイミングを見計らったかのように、マイズナー侯爵本人が現れた。
彼はアルフォンスが震える手で握りしめる羊皮紙を横目で見ると、さらに追い打ちをかけるように、詳細な報告書を差し出した。
「殿下、これが現実でございます。あの女は、もはや我々の手に負える存在ではない。アードラー団長までもが、彼女に誑かされ、王命に背いた。今すぐ、この反乱の芽を摘まねば、王国が危うございますぞ。殿下のご決断がこの国を救うのです」
マイズナーの蜂蜜のように甘く、毒のように冷たい言葉が、恐怖で十分に耕されたアルフォンスの傷ついた自尊心と弱い心に、じわりと染み込んでいく。
そうだ、あの女は、いつもそうだ。私を差し置いて、いつも正しい。それが許せなかった。
アルフォンスは、顔を上げた。その瞳には、嫉妬と恐怖に歪んだ暗い光が宿っていた。
「……分かった。王都に駐留する騎士団本隊に、出撃を命じる。反逆者、エリアーナとレオンハルトを討伐せよ」
マイズナーによって、采は投げられた。
*
ノルドクレイの祝宴は、最高潮に達していた。
わたくしはギデオンが注いだ出来立ての蒸留酒を、ゆっくりと味わっていた。舌を焼くような熱さが心地よい。
隣に立つレオンハルトと、視線が合う。彼が何かを言おうと口を開きかけた。
扉が勢いよく開け放たれる。
息を切らした見張りの兵士が、転がりそうになりながら叫んだ。
「報告! 北東の街道より、大規模な軍勢が接近中! 掲げられている旗は……!」
兵士は、信じられない、という表情で、言葉を続けた。
「――王家の、王家の獅子の紋章です!」
祝宴の喧騒が嘘のように、静まり返る。
わたくしの手から、杯が滑り落ち、床に叩きつけられて砕け散った。
内なる敵。それは王家。外の敵よりも遥かに、そして絶望的に強大だった。




