第4話 氷の騎士の戦い
回復魔法が使える者は少ない。辺境の地ではなおさらだ。王都で治療院を開けば、一生安泰なのだから。
領主の館は、即席の野戦病院と化していた。
普段は古文書の黴臭い匂いが支配する静かな空間が、今は血と汗、そして薬草を煮詰めた独特の匂いに満たされている。呻き声、指示を飛ばす声、そして時折聞こえる、どうしようもない悲嘆の声。それら全てが混じり合い、混沌という名の不協和音を奏でていた。
その混沌の中心にあって、わたくしの思考は氷のごとく冷静だった。
負傷者は人的資源。このノルドクレイ再生プロジェクトにおける最重要アセットだ。損失率は最小限に抑えなければならない。手当ての優先順位は、生存確率と戦線復帰までのリードタイムをマトリクスで評価して決定する。
感傷は切り捨てなければならない。ROI――投資収益率を著しく低下させるだけの、非生産的なノイズに過ぎないのだ。
「ターニャ、そちらの患者は後回しです。出血量が多く見えますが、傷は浅い。それより、あちらの腹部に矢を受けた兵士を。バイタルはまだ安定していますが、内臓損傷のリスクが高い。回復魔法が使える者を大至急呼んできて」
「ばいたる? あ、は、はい! エリアーナ様! ただちに!」
ターニャや村の女たちがきびきびと動く。わたくしが持ち込んだ衛生観念――傷口の洗浄、器具の煮沸消毒、先日開発した高濃度蒸留酒による消毒。この世界では異端とされるそれらの手法が、感染症による二次被害という、最も回避すべきリスクを劇的に低減させている。
これもまた成果だ。
目に見える明確な。
人の命という、何よりも尊いKPIの改善。
わたくしは、血に汚れた布を替えながら、ふと、城壁の外へと意識を向けた。あの男は今、どうしているだろうか。規定と秩序の権化。わたくしのシステムにおける、最大のバグであり、同時に最も信頼性の高い人物は。
彼もまた、彼自身の戦場で、プロジェクトを遂行しているはず。信じるしかない。
死なないで――
*
レオンハルト・フォン・アードラーは、戦場という名のチェス盤の上を、冷徹なキングとして動いていた。
彼の周囲で、剣戟の音が絶え間なく響き、土埃が舞い上がる。だが、その思考は喧騒から隔絶された静寂の中にあった。
敵兵の突撃方向を計算し、最短距離で迎撃する。一人の敵を無力化するのに要する時間は、平均三秒。剣の一振りで、一つの脅威が盤上から取り除かれる。その動作に、感情の介在する余地はない。ただ、淡々と処理していく。
そんな中、彼の意識の片隅は常に、館の方角を向いていた。そこは他のどの戦域よりも高い優先順位を持つ。戦において非合理的な思考。だが、彼はその一点の安全確保を最優先事項として考えていた。
エリアーナ。
あの女は、今頃、館で負傷者の手当てに当たっているはずだ。彼女の知識と判断力があれば、多くの命が救われるだろう。彼女は、彼女自身の戦場で、戦っている。
その思考が、彼の剣筋をほんのわずかながら鋭くさせた。
一人の敵兵が、レオンハルトの背後から、館の方角へ向かって駆け抜けようとする。その兵士の視線が、城壁の一点に向けられている。レオンハルトは見逃さなかった。
次の瞬間、レオンハルトの体は、思考よりも速く動いていた。大地を蹴り、最短ルートで兵士との距離を詰める。白銀の剣が一閃し、兵士は声もなく崩れ落ちた。
部下の一人が、驚きの声を上げる。
「団長! お見事です。しかし、なぜあの兵士を……?」
「……優先順位だ」
平坦な声で答えながら、レオンハルトは再び、館の方角へと視線を送った。あの場所だけは、何があっても守り抜かねばならない。それが、いつの間にか彼の行動原理の根幹を成す、新たな規定となっていた。
*
戦に一つの区切りがついたのは、陽が西に傾き始めた頃だった。
敵は一旦、兵を引いたらしい。だが、それは勝利ではない。嵐の前の、一時的な静寂に過ぎない。
わたくしは、息をつく暇もなく、負傷者の治療を続けていた。その時、担架で運び込まれてきた一人の騎士を見て、息を呑んだ。レオンハルトの、腹心の一人だ。その胸は、敵の槍によって無残に貫かれていた。
手遅れだ。わたくしの知識をもってしても、助からない。
だが、その騎士は、朦朧とする意識の中、わたくしの姿を認めると、最後の力を振り絞るように、その手を伸ばした。
「エリアーナ……様……」
「あなたは……」
レオンハルトの忠臣、クラウスという騎士だ。王都に用があると言って、この領地を離れていたはず。
なぜ彼が。
なぜ彼が血まみれなのか。
彼は血に染まった手で、わたくしの腕を掴んだ。そして、懐から固く封蝋された羊皮紙の巻物を取り出して、わたくしの手に押し付ける。
「これを……団長に……いえ、貴女様に……。団長は、貴女様を……お守りするために……」
それが、彼の最後の言葉だった。
騎士の手から、力が抜ける。わたくしの手に残されたのは、彼の血の温もりと、ずしりと重い一つの密書だけだった。
震える指で、封蝋を割った。そこに記されていたのは、宰相マイズナー侯爵が、隣国の将軍に宛てた、裏切りの証。この戦そのものが、彼によって仕組まれたものであることを示す、動かぬ証拠だった。
わたくしは今どんな顔をしているのだろう。悲しみも、怒りも、今は不要だ。ただ、冷徹な戦略家として思考しなければならない。
「クラウス……」
けれど、涙が止まらない。
情報のために命を落とすなんて。
「あなたの思い、しかと受け止めました」
この情報は、最大の武器になる。この戦況を、根底から覆す逆転の一手だ。




