第5話 守るべきもの
翌朝、ノルドクレイの村は、熱を帯びた緊張感に包まれていた。
わたくしは、最悪の事態を想定したコンティンジェンシープランを脳内で構築しながら、領主の館の扉を開けた。民衆のパニックを鎮圧し、避難計画を指示し、労働力を防衛リソースへと転換する。それが経営者としてのわたくしの責務だ。
だが、村の広場に広がっていた光景は、わたくしの予測を、良い意味で完全に裏切るものだった。
恐慌も絶望もない。
そこにあったのは、自らの手で未来を守ろうとする人々の決意だった。
ギデオンの号令の下、男たちは古びた農具を手に城壁の補修にあたり、女たちは籠城に備えて食料の分配と保存作業を進めている。子供たちですら、防衛用の石を懸命に運んでいた。
素晴らしい。危機管理意識が浸透している。従業員エンゲージメントの指標としては最高値だ。違う。これは、従業員ではない。これは……わたくしが守ると決めた、わたくしの「推し」の、構成要素。いや、それも違う。彼らが、わたくしの「推し」そのものなのだ。
ターニャが、真剣な表情でわたくしの元へ駆け寄ってきた。
「エリアーナ様! 『ガラスの家』の野菜は、籠城戦に備えて収穫計画を前倒しします! いつでも食べられるように、保存食の準備も始めました!」
わたくしが教えた知識が、彼女の中で芽吹き、自律的な行動へと繋がっている。これこそが事業における最も理想的な組織の姿。
わたくしの胸が熱くなる。これは達成感か。それとも……。
分析は後だ。今は「推し」たちの期待に応えなければならない。
*
その夜、領主の館の、かつては埃っぽい古文書室だった部屋は、即席の作戦司令室と化していた。
中央の長机には、わたくしが作成したノルドクレイの詳細な地図が広げられている。揺れる蝋燭の光が、向かいに座るレオンハルトの彫刻のように整った顔に深い陰影を落としていた。部屋には、わたくしたち二人しかいない。
ここからが、わたくしたちの真の共同作業だ。
「この谷は天然のボトルネックです。ここに、先日開発した高濃度アルコールと油を混ぜた可燃物を配置すれば、敵の騎馬隊の足を止められます」
わたくしが地図の一点を指し示すと、彼は即座に首を横に振った。
「効果的だが、風向きが問題だ。火攻めは諸刃の剣になる。だが、威嚇として使うなら有効かもしれん。敵の心理的動揺を誘う」
「なるほど。では、こちらの湿地帯は? 見た目以上にぬかるんでいます。ここに偽の道を造り、敵の重装歩兵を誘い込めば……」
「罠としては有効だが、脱出後の再編成を許す。退路を断つための別働隊が必要だ」
わたくしの発想と、彼の鉄壁の戦術知識。
最高のビジネスパートナーとのブレインストーミングだ。
いや、それ以上か……。
わたくしたちの思考は、互いの脆弱性を補い合い、完璧な防衛計画という名の芸術作品を編み上げていく。
数時間に及ぶ議論の末、机上の地図は無数の書き込みで埋め尽くされていた。
ふと、沈黙が落ちる。
「……これだけの投資をして、全てが水泡に帰すのは……耐えられない」
思わず弱音が漏れた。らしくない。自己嫌悪に陥りかけたその時。
レオンハルトの、ガントレットに覆われた大きな手が、地図の上に置かれたわたくしの手にそっと重ねられた。
「エリアーナ」
初めて、彼はわたくしを、何の肩書も付けずに呼んだ。
「これはもはや、監査役としての職務ではない。貴女の言う『投資』でもない」
彼の鋼色の瞳が、真っ直ぐにわたくしを射抜く。その瞳の奥には、これまで見たこともない光が宿っていた。
「これは契約だ。貴女と、貴女が守ろうとする全てを、俺の命に代えても守るという、終身の業務提携契約だ。……この条件、受け入れるか?」
時が止まった。
彼の言葉が、その意味が、わたくしの思考回路を完全に焼き切る。
終身の、業務提携契約。
それは、わたくしが知る、いかなるビジネス用語にも存在しない、あまりにも不器用で、実直で、そして……抗いがたい、響きを持っていた。




