第4話 第二の矢
一夜明け、わたくしは領主の館の一室、もとい、急遽物置を改造して設えた即席の実験室にいた。昨夜の吹雪で負った軽い凍傷がまだ指先に疼く。しかしそのような些事は思考の妨げにはならない。いや、むしろ、この程度のダメージは、思考を鈍らせる、というノイズを遮断するために好都合ですらあった。
洞窟での出来事。あの、レオンハルト・フォン・アードラーという男の、予測不能な行動。彼の体温、彼の心音、そして彼の言葉。それらは全て、わたくしの思考システムにおける計測不能なイレギュラーだ。これをどう分析し、どう分類し、どう対処すべきか。
人的資源の損失を回避するための最適行動?
危機的状況下における一時的な共感性の発露?
どれも、あの現象を説明するには不十分な仮説に過ぎない。
実に、非生産的だ。
思考のリソースを、より生産的なタスクに割り当てるべきだ。わたくしは目の前の光景に意識を集中させた。
薄暗い室内には、土の匂いと、微かに甘酸っぱい発酵臭が満ちている。山と積まれたジャガイモ。これこそが、この領地の未来を担う新たな資源だ。
「いい、ターニャ。酵母という微生物が糖を分解してアルコールを生成する。この混合液を加熱すると、水の沸点より低いアルコールの沸点を利用して、気化したアルコールだけを先に抽出できるの。これを冷却すれば、高濃度のアルコール液、すなわち蒸留酒が完成する。実にシンプルな化学プロセスよ」
わたくしの講義に、ターニャは目をキラキラさせながら頷いている。彼女の知的好奇心は、この不毛な土地における最も有望なアセットの一つだ。この知の種を育て、いずれはわたくしの後継者として、この事業をマネジメントさせる。それもまた、長期的な経営戦略の一環である。
いつものように、扉の隙間から監査役の冷たい視線を感じる。彼にとって、この光景は錬金術か、あるいは新たな不正の企みにでも見えているのだろうか。
奇跡のハーブティーが、この領地再生プロジェクトにおける第一の矢だった。だが、単一事業への依存は、経営上のリスクが高すぎる。事業ポートフォリオの多角化は、安定的な成長のための必須条件。この蒸留酒こそが、我が領地を盤石にするための第二の矢。
銅製の鍋と管を組み合わせた、粗末な蒸留器から、透明な液体がぽたり、ぽたりと滴り落ちる。それを小皿に受け、指先につけて僅かに舐める。舌を焼くような、純粋な熱。成功だ。
わたくしはその液体を光にかざした。透明な輝きの中に、この領地の未来が映っている。その達成感に、思わず口元が緩んだ。
*
その日の午後、レオンハルトは館の中庭の隅で、王都から極秘裏に到着した部下と対峙していた。冬の陽光は弱々しく、彼の白銀の鎧に反射しても、冷たい光を放つだけだ。
中庭の影から、見慣れた部下の一人が音もなく姿を現した。彼は恭しく跪くと、小さな羊皮紙の巻物を差し出す。レオンハルトはそれを受け取ると、無言で封蝋を割り、そこに記された暗号に鋼色の瞳を走らせた。
「ふむ……」
毒殺の失敗。
ならば次は、外患か。
合理的だが、悪辣な手だ。
宰相マイズナー侯爵。
彼の次の手は、隣国への密使派遣。
ノルドクレイとの国境紛争を煽動し、その混乱に乗じてエリアーナを排除する、という筋書き。あの女が放った「第一の矢」に続き、今まさに生まれようとしている「第二の矢」もまた、宰相にとっては看過できぬ脅威、というわけか……。
彼の視線が、自然とエリアーナのいる実験室の方へと向かう。この領地は、今や王国の防衛線であると同時に、彼女の「事業」そのものだ。どちらも、失わせるわけにはいかない。
レオンハルトが部下に新たな指示を与えようとした、その時だった。
村の入り口の方から、馬蹄の音がけたたましく響き渡る。一人の騎士が王家の紋章旗を掲げ、息を切らして馬から転がり落ちてきた。
公式の伝令騎士。彼はレオンハルトの姿を認めると、上ずった声で叫んだ。
「緊急伝令! 隣国が国境付近にて、大規模な軍事演習を開始! これを受け、ノルドクレイは最大級の警戒態勢に入れ、との国王陛下からの御命令です!」
宰相の仕掛けた見えざる脅威が、現実の軍事的危機として、その姿を現した。




