第1話 冬の温もり
地熱を利用した「ガラスの家」が完成してから数週間後。ノルドクレイの朝は、王都のそれとは比較にならないほど空気が冷たかった。肌を刺す冷気が、この土地の生産性の低さを証明している。
わたくしの服装は、もはや完全に定着した実用性を最優先した乗馬服。対する監査役、レオンハルト・フォン・アードラー騎士団長は、今日も今日とて一点の染みもない白銀の騎士服に身を包み、その存在自体がこの荒涼とした風景から浮き上がっていた。
彼の視線は、わたくしではなく、わたくしが作成した収穫計画書と、目の前の「ガラスの家」――温かい湯気を吐き出す、この世界では異端の建築物とを、交互に、値踏みするように行き来している。
「エリアーナ嬢。提出された計画書によれば、本日、第一回目の収穫を行うとある。これもまた、王国の農法規定には存在しない、極めて異例な栽培方法だ。その成果、しかとこの目で見届けさせてもらう」
彼の声は、温度という概念をどこかに置き忘れてきたかのように平坦だった。よろしい。監査役の仕事とは、そういうものだ。規定に準拠しているか否かを確認する。ただ、その規定が、目の前の現実に対応できていない、という致命的な欠陥を抱えているだけのこと。
「ええ、どうぞご覧ください、アードラー団長。これが、この土地のポテンシャルを最大限に引き出すための、わたくしのソリューションです」
わたくしは扉を開け、ターニャやギデオン、そして数人の村人たちと共に、その温かい湿気を帯びた空間へと足を踏み入れた。
外の凍てつく世界が嘘のように、そこは生命の緑で満ち溢れていた。
瑞々しい葉野菜が陽光を弾き、ふくよかな根菜が黒々とした土から顔を覗かせている。村人たちから、おお、という感嘆の声が漏れた。無理もない。彼らにとって、冬にこれほどの緑を目にすることは、生涯で初めての経験なのだから。
なるほど。これが成果というものか。十五年かけて完璧な淑女を演じても得られなかった、明確で裏切らない絶対的な価値。……実に、実に素晴らしいディールだ。
わたくしはターニャに収穫の手順を教えながら、内心でROI――投資収益率を計算していた。このビニールハウス建設にかかった資材と人件費。それに対し、この収穫量。驚異的な黒字だ。この成功体験は、領民の士気、すなわち労働生産性を飛躍的に向上させるだろう。完璧な正のフィードバックループ。
自身の胸に込み上げてくる、この熱い感情。これを分析するならば、プロジェクト成功に伴う達成感、とでも分類すべきか。だが、それだけでは説明がつかない、何か別のパラメータが混入している気がしてならない。実に不愉快だ。
*
その日の夜、領主の館の広間は、暖炉の火と人々の熱気で満たされていた。
急遽開催された収穫祭。食卓には、今日採れたばかりの新鮮な野菜を使った、素朴だが心づくしの料理が並んでいる。肉は先日ギデオンが仕留めた猪のものだ。この領地に来てから、これほど豊かな食卓は初めてだった。
領民たちの笑い声が、壁に染み付いたかび臭い匂いを追い払っていく。わたくしは経営者として、その光景を冷静に観察するつもりだった。だが、ターニャに手を引かれ、ギデオンに席を勧められるうちに、いつの間にかその輪の中心に座らされていた。
「エリアーナ様、これも食ってみてくだせえ。うちのかかあが腕によりをかけて作ったもんですだ」
差し出されたのは、温かい野菜のシチューだった。とてもおいしい。
壁際に一人で佇む白銀の騎士の姿が目に入る。彼はこの喧騒の中にあっても、監査役としての立場を崩さないらしい。融通の利かない男だ。
わたくしはなぜか、そうせずにはいられなかった。
立ち上がり、シチューの皿を手に彼の元へと歩み寄る。
「監査役殿にも、投資の成果物を確認していただかなくては。これも職務の一環でしょう?」
我ながら捻くれた言い方だとは思う。けれど、素直に「どうぞ」と言えないのが、今のわたくしなのだ。
彼は一瞬、驚いたように目を見開いたが、やがて無言で皿を受け取った。
「……いただいておく」
たった一言。それだけだというのに、わたくしの心臓は、またしても不自然なな挙動を示す。
この状況を分析する。
タスク。
監査役への食事提供。
期待されるリターンはなし。
コスト。
時間的、精神的リソースの消費。
結論。
非効率な行動。
だというのに、なぜわたくしは、こんな行動を取った?
理解不能なバグだ。
その時だった。
祝宴の輪の中心で、一人の村人が、苦悶の表情を浮かべて腹を押さえた。そして、椅子から崩れ落ちる。それを皮切りに、あちこちで呻き声が上がり始めた。
先ほどまでの温かい空気は、一瞬にして凍りついた。
冬の温もり。それは、あまりにも儚く脆いものだった。




