第10話 新たな契約
王都の宿屋の一室。その隠れ家めいた空間は、隣国の使者と名乗る男との秘密交渉の舞台と化していた。
この会談は、わたくしの事業計画におけるクリティカルな分岐点だ。商業ギルドという既存プラットフォームからのアクセスを、宰相マイズナー侯爵という外的要因によって完全に遮断された今、この男の提案は、砂漠で見つけた唯一の水源にも等しい。だが、同時に、それが毒である可能性も否定できない。
男はノルドクレイの地政学的な重要性を説いた。我が領地が、隣国と王国を繋ぐ最短交易路となり得ること。そして、その路の独占的な利用権と引き換えに、わたくしたちの特産品を高値で買い上げるという、長期的なパートナーシップを提案してきた。
これは、単なる商談ではない。国際関係における、極めてハイリスク・ハイリターンな戦略的提携の打診だ。
わたくしの脳内では、高速で損益分岐点とリスクシナリオが算出されていく。
アップサイド。つまり、マイズナー侯爵の影響力を完全に排除した、安定的なキャッシュフローの確保。
ダウンサイド。つまり、隣国との癒着を理由に、王国から反逆罪に問われる可能性。これは、事業領域の拡大どころか、プロジェクトそのものの根幹を揺るがすスコープクリープである。
わたくしの背後には、氷の騎士――レオンハルト・フォン・アードラーが、監査役という建前も忘れ去ったかのように控えている。彼の存在自体が、この交渉における最大の変数だ。彼がこの密会をどう判断し、王都にどう報告するか。そのアウトプット次第で、わたくしの未来は決まる。
ゆえに、今のわたくしに、このディールを拒否する選択肢はなかった。
数時間に及ぶ言葉の探り合いと論理の応酬の末、わたくしは、こちらの利益を最大化し、かつリスクを最小限に抑える条項を契約書に盛り込ませることに成功した。男は満足げに頷くと、契約書に署名し、闇の中へと消えていった。
部屋に残されたのは、わたくしとレオンハルト、そして羊皮紙に記された、危険な未来への契約書だけだった。
*
翌日、わたくしたちは王都を後にした。
ノルドクレイへと向かう馬車の中は、気まずい沈黙に支配されている。狭くて単調に揺れるこの空間は、思考を巡らせるには最適だが、同時に逃げ場のない対話を強いる檻でもあった。
わたくしは、新たな契約によって生じるであろうサプライチェーンの再構築と、それに伴うロジスティクスの最適化について、脳内でシミュレーションを繰り返していた。それが、この男と二人きりの空間で、正気を保つための唯一の手段だった。
その静寂を破ったのは、彼の、あまりに唐突な一言だった。
「君は、俺が守るべき秩序を根底から覆す……が……面白い」
その言葉と共に、彼は微笑んだ。
信じられなかった。
ほんのわずかに、その鉄仮面のような口の端が持ち上がる。ただそれだけの、微細な表情の変化。
その瞬間、わたくしの思考回路は、完全にフリーズした。
なぜだ。なぜ笑う。この男の表情筋は、鉄の規律と論理で完璧に制御されているのではなかったのか。これはバグだ。予測不能な、あり得ないアウトプット。
状況を分析する。
一つ目の要因。
隣国との交渉の成功。
二つ目の要因。
わたくしの手腕への評価。
それが賞賛へ帰結。
だが、彼のプロトコルにおける賞賛の表現は、無表情な肯定のはずだ。「笑み」という、感情的で非効率な表現が選択される論理的根拠はどこにも存在しないし見たことがない。
心臓の鼓動が早くなる。
顔面の温度が急上昇していく。
これは……何だ。この身体的反応は、前世のデータベースにおける「動揺」あるいは「羞恥」のタグと一致する。馬鹿な。わたくしの思考が、たった一つの表情データによってオーバーヒートしているというのか。非合理的、非生産的、そして、極めて……不愉快。
わたくしは、その混乱を悟られぬよう、咄嗟に窓の外へ視線を逃がした。彼の視線から逃れるように。脳内のエラーコードを処理しきれないまま、ただ流れていく景色を無心で追い続けた。
*
ノルドクレイに帰還したのは、夕暮れ時だった。
村の入り口に馬車が着くと、そこには、わたくしが初めてこの地を訪れた時とは、全く異なる光景が広がっていた。
敵意と無関心に満ちていたはずの領民たちが、わたくしたちを、心からの笑顔で出迎えていた。
ギデオンが、ターニャが、そして村の誰も彼もが、その顔に希望の色を浮かべていた。
彼らの笑顔。彼らの歓声。それは、この事業における、最も明確な投資対効果の可視化だった。わたくしが築き上げた、何よりも価値のある無形の資産。
脳裏に、アルフォンス殿下の侮蔑に満ちた顔がよぎる。十五年という歳月を捧げ、わたくしが得た評価は「面白みがない」という、たった一言の罵倒だった。だが、この地で過ごしたわずかな月日は、これだけの「成果」をわたくしにもたらした。投資効率は、比較にすらならない。
そうだ。人からの愛情などという、不確実で変動の激しいものに投資するのはもうやめた。わたくしの「推し」は、このノルドクレイ。この事業。この、裏切らない、愛すべきプロジェクトこそが、わたくしの全てだ。
わたくしは、領民たちの歓迎の輪の中心で、誰にも気づかれぬよう、固く誓った。




