第7話 因縁の王都へ
わたくしたちが王都アウレリアの城門をくぐったのは、ノルドクレイを発ってから三日後の、陽光がやけにまぶしい昼下がりのことだった。
辺境の鋭利な空気とは異なり、王都の空気は人々の熱気と馬糞の匂い、そしてどこからか漂う焼き菓子の甘い香りで、ねっとりと澱んでいる。石畳の上を行き交うのは、豪奢な装飾の施された馬車と、流行の最先端を行く絹のドレスに身を包んだ貴族たち。全てが、わたくしが置き去りにしてきた世界の光景だ。
わたくしの内心とは裏腹に、隣に座るレオンハルト・フォン・アードラー騎士団長の鋼色の瞳は、油断なく周囲を警戒している。彼の存在は、この華やかな風景の中において、一点の曇りもない白銀の刃物そのものであり、ある種の異物感を放っていた。
「まずは商業ギルドへ向かいます。市場調査と、販路確保の可能性を探るためです」
手元の行動計画書を確認しながら告げると、彼は「承知した」と短く応えた。その声には感情の起伏がない。だが、彼の視線が、時折わたくしの横顔を窺っていることには気づいていた。監査対象の挙動監視、といったところだろうか。実に職務熱心なことである。
目的地である商業ギルドへ向かうべく、大通りを横切ろうとした、その時だった。
前方に見知った顔があった。いや、忘れたくても忘れようのない、わたくしの過去のプロジェクトにおける最大にして最悪の失敗案件。元婚約者のアルフォンス王太子殿下と、その腕に寄り添うシャーリー男爵令嬢、その人であった。
向こうもこちらに気づいたらしい。アルフォンス殿下の眉が不快げに寄せられ、シャーリー嬢の唇には、扇の影で隠しきれない、侮蔑の笑みが浮かんでいる。
「あら、エリアーナ様ではございませんか。辺境での泥遊びは、もうお済みになりましたの?」
シャーリー嬢の鈴を転がす声は、的確にわたくしの神経を逆撫でするための周波数で設計されている。なるほど、これは過去の不良債権とのエンカウントか。予測不能なリスクイベントだ。だが、今のわたくしにとって、彼らはもはやステークホルダーですらない。ただのノイズだ。
「これは、アルフォンス殿下にシャーリー様。ごきげんよう」
わたくしは、背筋を伸ばし、完璧な淑女の笑みを顔に貼り付けた。
「エリアーナ。まだそんな堅苦しい挨拶しかできないのか。だから面白みがないと言われるのだ。少しはシャーリーの愛嬌を見習ったらどうだ?」
アルフォンス殿下の言葉に、わたくしの脳内では瞬時に損益計算が走る。この場で彼らと言葉を交わす時間的コストと、それによって得られるリターン。答えは明白だ。リターン、ゼロ。完全なる機会損失。
「申し訳ございません。過去の案件につきまして、わたくしがコメントする立場にはございません。これからの新規事業に関する重要なアポイントメントが控えておりますので、これで失礼いたしますわ」
わたくしは優雅にカーテシーをすると、凍り付く彼らを尻目に、レオンハルトと共にその場を離れた。歩き出しながら、ちらりと背後の監査役の様子を窺う。彼の右手が、無意識に剣の柄に触れている。警護対象への脅威を認識し、臨戦態勢に入った、と分析する。ただし、その行動の真意が、まるで理解できなかった。
*
商業ギルドの本部は、その権威を体現するかのごとく、重厚なマホガニー材と金装飾で満たされた、威圧的な空間だった。
応接室の革張りのソファに腰を下ろしたわたくしたちの前に、恰幅のいいギルド長が、作り物めいた笑みを浮かべて座っている。
「これはこれは、エリアーナ様。辺境でのご活躍、噂はかねがね」
わたくしは単刀直入に本題に入った。ノルドクレイで開発した「奇跡のハーブティー」のサンプルを提示し、その品質、市場における潜在的な需要、そしてギルドにとっての利益率まで、完璧なプレゼンテーションを行った。
ギルド長は、ハーブティーの芳醇な香りに目を細め、その味を絶賛した。だが、契約の話になると、途端に歯切れが悪くなる。
「素晴らしい商品ですな。ですが、いかんせん前例がない。このような新商品を流通させるとなりますと、既存の取引先とのバランスも考慮せねばならず……」
なるほど、これは交渉ではない。時間稼ぎと責任転嫁の儀式だ。彼のKPIは取引の成立ではなく、波風を立てないこと。彼の言葉の端々から、見えざる第三者からの圧力を感じる。
「ギルド長。わたくしは、ビジネスの話をしに参りました。政治の話ではありません」
「いやはや、これはこれは。しかし、エリアーナ様。我々商人とて、お世話になっている有力な方々のご意向というものも、ございますのでな」
その言葉で全てを察した。この交渉は始まる前から終わっていた。
わたくしたちがギルドを後にした直後、レオンハルトの部下と思しき男が、彼に一枚の羊皮紙を渡して姿を消した。レオンハルトはそれに目を通すと、わたくしに向き直り、静かに告げた。
「昨夜、ギルド長と密会していた人物がいた。シャーリー嬢の縁者だそうだ」
個人的な嫌がらせが事業そのものを妨害するフェーズに入った。事態はわたくしの想定よりも速く、そして悪いほうへ進行していた。




