これから
彼は言った。
「終わりにしよう」
「どういうこと?」
私は聞いた。
「結婚が決まったんだ。うちと釣り合いの取れる家とのね」
「……私を愛してるって……。結婚は、私と……」
「俺と結婚したかったの? 君だって遊びだったろう? まさか子供なんて出来てないだろうな」
「出来てないわよ!」
私は思わず叫んだ。
彼は封筒を机の上に置いた。
「手切れ金だ」
私は受けとることもなく、彼の前を去った。お腹の子供とともに。
「おぎゃあ おぎゃあ」
「ん~、君は元気いっぱいですね~」
私は息子の卓人を抱っこしながら話しかけた。本当に可愛いわね。と言ってくれたのは、私のアパートの大屋さん。以前から天涯孤独の私を娘のように可愛がってくれていた。そして今も卓人のことを可愛がってくれている。私が働きに出る時には預かってもくれる。でもこれ以上甘えている訳にもいかない。きちんと保育園を探して、正社員として働かないと! 私は今、アルバイトを掛け持ちしてなんとか暮らしているけれど、卓人が大きくなるにつれお金もかかる。
ピンポーン
「はい」
私が玄関を開けると、男性が立っていた。
誰?
私が思った時、卓人が泣く声がした。
「おぎゃあ、おぎゃあ」
「あ、あの」
「赤ちゃん泣いてるよ」
その男性は言った。
男性のことは気になったが、私は卓人をあやすとベッドへ寝かせた。
「どちら様ですか」
「弟が悪かった」
「は?」
「……卓人の父親だよ」
「まさか彼の……」
「ああ、兄だ」
「出ていってください!」
「待ってくれ!」
私は強引に扉を閉めた。
今になって、彼の家族が現れるなんて……。まさか卓人を取り上げようと……? 卓人は本当ならあの忌々しい家の一員。経済界の大物一族。でも卓人は私の子供よ。渡したりしないわ! そんなことを考えながら私は眠りについた。
翌朝。
「きゃー! バイトに遅刻する!」
それでなくても厳しいバイト先。遅刻なんてしたらクビになるかも! 私は必死に走った。と、その時、黒塗りの車が私の横へ止まった。
「急ぐんだろう、乗って」
昨日の男性だった。卓人の父親の兄と名乗った。そんな怪しい人間の車になんて乗れる訳ないでしょうが!
「結構です!」
私は走りながら怒鳴った。
「もうあと10分で9時になるよ」
げげっ! 走っても間に合わない!
この時私はどうかしていたのかもしれない。無理矢理彼の車を止めて乗り込み、言った。
「早く!!」
男性はすぐに車を走らせ、おかげで仕事に間に合った。
「ありがとう!」
お礼もそこそこに、私は仕事先へ飛び込んだ。
夕方。アルバイト先を出ると、見たことのある黒塗りの車が止まっていた。そしてそこにはあの男性がいた。私は身構えたが、今朝送ってくれなければクビになっていたかもしれなかったことを思い出した。そして私は男性の元へと行った。
「今朝はありがとうございました。おかげで遅刻しないですみました」
私はお礼を言うと、その場を立ち去ろうとした。が、彼がそうはさせてくれなかった。彼は私の二の腕を掴むと言った。
「お礼なら、食事を一緒にして欲しいな」
彼は笑った。優しげな笑み。でも騙されてはいけない。この人の弟は私を遊び人扱いして捨てたのよ。
「食事ならお一人でどうぞ。あなたもご存知のとおり、私には子供が家で待ってるの」
「卓人くんなら大屋さんにお願いしてきたよ」
「え? どういうこと?」
「信用出来ないなら、大屋さんに電話してみるといい」
私は大屋さんに電話した。すると大屋さんは興奮気味に言った。
「あんなに素敵な男性がいたのね! 卓人くんなら任せて!」
「え!? ち、違うんです!」
「照れなくてもいいのよ。食事へ行くんですって? ゆっくりしていらっしゃい」
そうして電話は切れた。
「どういうこと? 大屋さんまで味方につけて! 卓人は私の子供よ!」
「わかってるよ。とりあえずは食事へ行こう。お腹空いたろう」
「お腹なんて……」空いてないという言葉は私の胃の虫に邪魔された。
ぐー
彼はその音を聞いて笑っている。なんだか悔しい! それから食事を終え、彼は私をアパートへ送ってくれた。私は真っ先に卓人のもとへ行った。
「今日はありがとうございました」
私が大屋さんにお礼を言うと、すぐ後ろに彼がいた。
「本当にありがとうございます」
「何であなたがお礼なんて……」と、反論しかけた時、その反論を遮るように彼は私の口をふさいだ。自らの口で。
「な、な、な、」
何するのよ! との声も出ない。
「まあまあ、二人とも家に帰ってからにしなさいな」
大屋さんの弾む声がした。
は、恥ずかしい! とにかくこの場を逃げなければ!
「お、おやすみなさい!」
私は叫ぶと自分の部屋へ飛び込んだ。と、いつの間にか男性が玄関の内側にいる。
「何でそこにいるのよ!?」
「君が引っ張ってきたんだろう」
「え?」
そ、そういえば大屋さんから逃げるときに無理矢理引っ張ってきたような……。でもさっきのキスは……。私は思い出して顔が熱くなった。
「どうして大屋さんの前であんな……」
私は自然と顔が赤くなっていくのを感じた。
「どうしてって、君のことが好きだからさ」
彼はけろっと答えた。
「ふざけないで! あなたも弟さんと同じなんでしょ!? 兄弟そろって私をからかうの!?」
「違う! 俺は君が好きだ! 君は知らないかもしれないが、以前会ってるんだよ。家の庭でね」
「え?」
「君は軽やかに庭を歩き、陽の光を浴びて妖精のように微笑んでいた」
彼は言葉を切ると、話し始めた。
「その時から君が好きだ。弟のしたことは許すことは出来ない。ただ、君は天使を産んでくれた。その天使は君の子供だ。弟が何を言ったかは知らないが、君が産むことを選択したのは間違ってはいない。この天使がそう言っているだろう?」
私は彼の言葉に泣き崩れた。アルバイトを掛け持ちしてようやく生活している私が赤ちゃんを産んでもいいのか迷ったこともあった。でもこの一言で救われた気がした。
「ありがとう」
私の素直な気持ちだった。かといって、彼の弟は私をもて遊んだ。その兄に告白されても、信じることは難しい。また同じ思いをしないうちに会わないようにしなければ。
「今日はありがとう。さようなら」
「待ってくれ! 俺は君が好きだ!」
「そしてこう言うのね。自分の家と釣り合いの取れた人と結婚するって」
「俺は弟とは違う!」
私は玄関の壁を背に、彼の腕に囲まれていた。そっと彼は私を抱き締めた。大事なものを扱うようにそっと。そして囁いた。君が好きだ、と。
「今日は帰るよ。おやすみ」
『君が好きだ』
冗談に決まっている。わかっているのに、この胸のもやもやは何なの!?
翌日彼は来なかった。その翌日も。よく考えたら、彼の連絡先も知らない。やっぱり遊ばれたのね。と私が思った時、アパートの前に黒塗りの車が止まった。車から出てきたのは、私を好きだと言った彼。あれから二週間。やっぱり遊ばれたと思ってた矢先、何で現れるのよ!
「何か用?」
「遅くなってごめん。仕事が忙しかったんだ。もしかして拗ねてる?」
彼はいたずらっぽく笑った。
「な! 拗ねてなんか!」
と言いつつ、彼に会えて嬉しい自分がいることに気づいた。
「この服に着替えてくれ」
彼が差し出したのはドレス。
「何で?」
私は不思議に思った。
「これでうちのパーティーに来て欲しい」
パーティー!? そこにはきっと彼の弟、卓人の父親がいる。ドクンと胸が嫌な音をたてた。
「嫌よ! 行かないわ!」
「来るんだ。そうすればわかる」
「何が?」
「俺が君を好きだってことがね。それに君もけりを着けてもいいと思うけどね」
「けりですって?」
「弟のことだよ」
「もうあなたの弟さんとは……」
「君のことは俺が守るよ」
彼は笑いながら言った。
ドキン
どうしたら……。でも彼の言ってることも正しいわ。きちんと卓人の父親の結婚を見なければ、あの人を忘れることも出来ないし、憎んだままだわ。そんな気持ち、持ち続けていたくはない。
「わかったわ。行くわ」
との私の言葉が出るや否や、私は美容院にいた。そしてドレスアップした自分が鏡に映っていた。
「綺麗だ。さあ、行こう」
彼も正装をしている。そんな彼に手を引かれて、やってきたのは、彼の家。彼の。え? 彼の弟の家はここではなかったわ。どういうこと?
彼は堂々と玄関を入ると、パーティー会場へ向かった。そこはきらびやかな世界だった。
「まあ! いつも忙しいと言っていたあなたがよく来てくれたわね!」
「おばあさま、お久しぶりです」
「あら、そのお嬢さんは?」
「おばあさま、紹介します。彼女は俺の大切な婚約者ですよ」
「まあ! ようやく結婚する気になったのね! お嬢さん、こちらへ」
私は何が何だかわからないうちに彼のおばあさんの前に進み出た。
「は、初めまして」
「まあ、可愛らしいお嬢さんね。どちらの家の方?」
「わ、私は」
「おばあさま、彼女は俺の好きな人。それだけですよ」
「まあ、そうなのね。ようやく見つけたのね」
「はい」
「おばあさま」
その声に私は振り返った。卓人の父親がそこにいた。綺麗な女性とともに。
ドクン
胸が嫌な音をたてた。
「君が何故ここに?」
彼は狼狽えてる。まさか私との関係は他の人には内緒だったの?
「どうしたの?」女性が言った。
「あなた、見ない顔ね。どなた?」
私はどう答えたらいいのか迷った。とそのときに彼はやってきた。私をふわりと後ろから抱き締め、言った。
「俺の婚約者だよ」
「なんだって!? 兄さん、彼女は……」
「彼女は、何だ?」
「あなたが結婚? 冗談よね?」
彼の弟の横にいた女性が彼に近づいて言った。
「冗談なんかじゃないさ。君こそ、弟の所へ戻ったらどうだい?」
「言われなくても戻るわよ! 行きましょう」
彼の弟は女性と立ち去って行った。
私はこんな時なのに、彼の腕の中が心地いいと思ってしまった。卓人の父親のことは、自分で思っていたよりも傷つくこともなかった。この腕のおかげかもしれない。私は彼を見上げた。それを見て、彼は腕を解いて、私と向き合った。
「彼女は?」
「弟の婚約者」
「何故こんなことを?」
「君の中から弟を追い出したかったからさ。弟とは異母兄弟なんだ。あいつは次男だからか、家の格にこだわってね。それで良い家の娘と婚約したんだ。でも俺はそんな結婚は嫌でね、この家には近寄りもしなかったのさ。そんなとき、家の離れの庭で君を見かけた」
「それで?」
私が話を促すと、彼は赤くなり、横を向いた。
「……一目惚れだった。君が弟と腕を組んで歩いているのを見た時、俺は弟を殴りそうになったよ。だが、それで君が幸せなら、と思っていたが、弟は君を家族に恋人だとも伝えず、こちらの本館へも連れて来ることはなかった。まさかとは思ったが、君はもうそこにはいなくなっていた。そして弟の隣には違う女性がいたよ」
「そう、なの」
彼から話を聞いても、卓人の父親へはそれほどの感慨はなかった。それよりも気になったのが、『一目惚れ』この言葉が気になって仕方がない。胸が早鐘を打つ。
「あ、あなたは私をどうするつもり?」
「言っただろう。君は俺の婚約者だ。結婚して欲しい」
「どうして……」
私はぼそっと呟いた。
「一目惚れだって言ったろ!? 君がどこの誰でも構わない。君が好きだ」
こんなにまっすぐに想いをぶつけてくるなんて。私の胸の早鐘は止まらなかった。
「信じていいの?」
「信じて欲しい」
私たちはそっとキスを交わした。
教会でも同じように。




