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音楽で乙女は救えない  作者: ナツ
第一章 小学生編
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 触ってもいい? ねえ、いい?

 フルコンのベーゼンドルファーの前に立って、私はじーっと紅さまを見つめた。

 

 あ、フルコンっていうのは、フル・コンサート。一番長いサイズのピアノのこと。学校に置いてあるようなグランド・ピアノはこれより少し短くて、セミ・コンサートピアノ。略してセミコンと呼ばれてる。


「はいはい。少し待ってろよ、お姫様」


 彼は苦笑しながら、グランドピアノの天屋根に手を掛けた。

 そこを開けないとピアノ本来の響きが出せないと分かってはいるものの、物凄く重たいはず。

 ハラハラしながら見守っていると、紅さまは持ち上げる瞬間ちょっとだけ眉を顰めたものの、危なげなく支え棒の先端を持ち皿状の部品に収めた。


「すごい……紅くん、今、何センチあるの?」

「うん? そうだな、160くらいか」


 私とは15センチも違うことになる。

 細く見える腕だけど、こんなに重たい屋根を一人で持ち上げられるんだから、かなり筋肉質なのかもしれない。これで10歳とか……ないわ。


「なんで引くんだよ。ここは俺に見惚れるところだろ」

「こんな小学生、やだよ」

「ふふ、ズケズケ言うね」


 紅さまはやけに上機嫌になった。

 俺様じゃなくて、実はマゾっ気があるとか。……更に怖い。


「さあ、どうぞ。お手並み拝見といこうか」


 部屋の隅から折りたたみ椅子を持ってくると、紅さまは悠々と腰を下ろした。


 プレッシャーをかける腹づもりだとしたら、お生憎様。

 亜由美先生のレッスンの比じゃない。


 ピアノの椅子の高さを調節し、軽く指を置き、ドの鍵盤を押し込んでみた。

 僅かに遅れ、華やかな響きが空に立ち上る。それから余韻を残してふわりと消えた。

 音の立ち上がりが鋭い亜由美先生の家のスタインウェイと比べて、重たい感じ。

 でもその分、深みのある音が出る気がする。

 軽やかなタッチのショパンより、ブラームスやベートーヴェンなんかを引くと、カッコよさそう。


 音階練習でしばらく指慣らしをし、改めて鍵盤に手を置いた。

 88鍵より鍵盤の数が多い97鍵のピアノ。ちょっとだけ付き合ってね、と心の中で声を掛けてみる。

 

 ――ブラームス16のワルツより第15番変イ長調

 

 今ちょうどレッスンを受けている曲だ。

 甘い主題が形を変えながら何度も現れる、二分弱の短い曲なんだけど、華やかな雰囲気が気に入ってる。


 おおっと、やっぱりうちの素直なアイネちゃんや先生のところの子よりも、扱いづらいな。


 最後の音からそっと指を放し、余韻を味わう。

 うん、でもすごく素敵! 

 「もっとこんな風に弾いたら?」って教えてくれるみたいな、そんな味わいがあった。


 パチパチパチ。乾いた拍手に我に返る。

 ああ、そういえば紅さま、いたんだっけ。


「……始めて2年とはとても思えない。なかなかやるじゃないか、ましろ」


 紅さまは挑むような強い眼差しで私を射抜いた。


「そりゃ、どうも。でも、紺ちゃんの足元にも及んでないでしょ?」


 先回りして彼に言われそうな台詞を吐く。

 紅さまは形の良い唇を弓なりにカーブさせた。


「現時点ではな。……お前、一体何者だ?」


 亜由美先生の家のサロンで言われた言葉と同じ。

 だけど、ニュアンスが全然違った。

 紅さまは、真剣に私に問いかけていた。牽制や侮蔑なんかは一切混じっていない、純粋な疑問をぶつけられ、私はしばらく考えた。

 外見と中身がちぐはぐなことに、薄々勘付かれているんだろうか。


 何と説明すればいいのか、私には本当に分からなかった。転生なんて馬鹿げた話、とてもじゃないけど信じて貰えるとは思えない。

 だけど、ここは真摯に答えなきゃいけない気がした。


「ピアノは好き。紺ちゃんも好きだよ。私は彼女の敵にはならない」

「そうか。……なあ、お前初見できるか?」

「ん? まあ、簡単なものなら」


 突然何を言い出すのだろう。

 訝しげに首を傾げた私を置いて、彼は立ち上がり、本棚に近づくと一冊の楽譜を取り出した。


「一時間やる。大体でいいから、音を拾ってみろよ」

 

 渡された楽譜は、クライスラーの愛の悲しみという曲だった。

 どうやら、ピアノとヴァイオリンの二重奏らしい。

 パラパラと楽譜をめくって、ざっと目を通してみる。そこまで難しい技法は使われてないみたいだけど、流石に一時間では無理!


「私にはまだ早いよ、これ」


 紅さまはピアノの譜面台のところにあった赤鉛筆を取り上げ、楽譜に書き込みを始めた。

 難しい音を消し、簡単なアレンジに変えていく。

 あっという間に、楽譜は赤だらけになった。


「こんな感じでどうだ」

「……これなら、なんとか」


 私は内心舌を巻いていた。

 かなりの音楽知識がないと、紅さまが今やってみせたような真似は出来ない。

 外してしまうと曲が成り立たなくなる大切なフレーズは丸ごと残し、レベルを落として弾きやすい曲にしちゃうなんて。

 しかも、即興だよ? 一音もピアノで確認してない。


「俺がいたら邪魔だろうから、いったん外してやるよ。一時間したら、戻る」


 コンコン。

 控えめなノックに紅さまは「どうぞ」と答えた。

 先程の執事さんが、スライスオレンジを浮かべたアイスティーの入ったピッチャーとグラス、そしてアイスペールをお盆に載せて入ってくる。

 お茶請けのクッキーに目を奪われている私を見て、紅さまは「しょうがないな」と微笑んだ。

 

 取り繕った完璧な仮面が外れ、紺ちゃんに見せるような優しい眼差しが現れる。


 それは、ほんの一瞬だった。

 私の胸はキュンと音を立てた。

 

 く、悔しい。

 

 ……だけど、ずっと好きだと思い込んで追いかけていた憧れの人からそんな目で見られたら、誰だってトキめいてしまうと思う。

 例え片思いの相手が二次元だったとしても!


「食べても飲んでもいいけど、練習しろよ」

「はーい」

「返事は伸ばすな」

「はい」


 お決まりのやり取りの後、紅さまと執事の田宮さんは音楽室から出て行った。

 テーブルの上に置かれたクッキーを早速つまむ。

 サックサクで美味しい。バターの芳醇な甘味にうっとりした。喉も乾いていたので、どっかの雪山の氷室ひむろから切り出してきたんですか!? ってくらい大きな氷をグラスに落とし、アイスティーを注いだ。

 カランカラン。

 涼しげな音に目を細めつつ、そっと口をつける。


 ――なにこれ、めちゃくちゃ美味しいんですけど!!


 誰も見ていないのをいいことに、一気に飲み干しプハーッと大きく息を吐いた。

 ふう、すっきりした。

 よっしゃ! 譜読みしますか。

 抜かりなく準備されていたおしぼりで、丁寧に指を拭き、ついでに口の周りも拭いておいた。食べ屑なんてつけてたら、ここぞとばかりにからかわれるだろうし。


 LIEBESLEID(愛の悲しみ)は、クライスラーが作曲した「愛の喜び」と対になっている二重奏曲だ。

 楽譜を見るのはこれが初めて。

 イ短調の三拍子。優雅なワルツというより、どこかの民族舞踊みたいな緩いリズムの哀愁漂うこの感じ、最近はわりと好きになってきている。


 右手でざっと主旋律を奏で、だいたいの左手を合わせる。

 まずは弾きにくいところをすっ飛ばして、全体を掴む。その後、細かい部分練習をした。


 ヴァイオリンと合わせるのなら、一番重要なのは「途中で止まらない」こと。

 つっかえても演奏がストップしないよう、何度も通してみる。

 雑だけど大体仕上がったかな、というところで、テンポを計ってみることにした。

 メトロノームを手に、はた、と止まる。

 指示テンポの部分には『Tempo di Landler』と記されてた。

 レントラーって、なんだろ?


 分からなかったので、CDで聞いたことのある速さを真似してみることにした。おおまかに弾けるようになった頃、タイミングよく紅さまが戻ってきた。


「どうだ?」

「ノーミスには程遠いけど、そこそこは弾けるようになったかな。あ、ねえ。コレどういう意味?」


 楽譜を見せようとすると、立たなくていい、と身振りで示し紅さまが傍まで歩いてくる。

 そのまま座った私の隣に立ち、彼は腰をかがめた。

 かなりの至近距離まで紅さまの綺麗なお顔が近づいたので、思わず体を引いてしまう。


「レントラーってのは、南ドイツで昔踊られていた民族舞踊のことだ。Cの部分にはpoco meno mossoとあるだろう? 一般的なワルツより、少し遅めに揺らしながら弾けばいい」

「なるほど。じゃあ、弾いてみようか?」

「いや、ある程度すり合わせよう。俺が先に弾くから、まずは聞きながら楽譜で音を追ってみろ」


 ふーん。やっぱり一緒に合奏しようぜ! ってことだったんだ。

 

 一緒にコンサートに行った時には「賞を取ったらな」なーんて言ってた癖に、今日の紅さまは少し変。

 胡乱な目付きでじろじろ眺めているのに気がついたのか、紅さまはヴァイオリンの準備をしながら、私の方を振りかえった。


「緊張してる? それとも、俺に惚れ直した?」

「まさか! もう惚れてないですよーだ!」

「前は惚れてたのかよ」


 クスクス笑いながら、紅さまは機嫌よく調弦を済ませていく。

 好きじゃないと言われるのが、嬉しいみたいに見えた。


 

 美しい立ち姿で紅さまがヴァオリンを構える。

 私は息を飲んで、彼に見入った。

 『ボクメロ』で何度も出てきた演奏スチルの紅さまを、そのまま幼くした感じ。

 高校生まで育ったら、どんなに素敵になっちゃうんだろう。

 性格に難ありの紅さまだけど、カッコいいものはカッコいいんだから仕方ない。


 弓を弦に軽くあて、紅さまはおもむろに弾き鳴らし始めた。

 クライスラーは彼自身もヴァイオリニストだったこともあり、特にヴァイオリンが魅力的な曲をいろいろ生み出している。

 この曲を弾きこなすにはポジション移動、ヴィブラート、ハーモニクスなどある程度のテクニックが必要だ。中でも難しいのは、一番最後の音、ハイポジションのハーモニクス。

 紅さまは難なく音を当ててたけど、途中のCからAへの6度の上行音型の部分なんてかなり難しいはず。


 ……はっきり言って、すごく上手い。


 紅さまの技術力からするともっと難しい曲だって弾けるはず。そう思わされた。

 ヴァイオリンを下ろした紅さまに拍手をすると、気障ったらしい仕草でお辞儀を返してくる。


「どうも。じゃあ、早速合わせてみようか。時間が遅いから、一回だけな」


 うわ~、一発勝負なの!?

 ドキドキしながらピアノに手を置き、紅さまの合図を待った。


 しっとりと落ち着いた柔らかなヴァイオリンに合わせ、何とか楽譜を追い、鍵盤に指を落とす。

 うわああ!

 紅さまの完璧なフレージングをぶっ壊してますよね、今!


 ハラハラする部分は沢山あったけど、なんとかつかえず最後まで通せた。

 ヴァイオリンの最後の一音が消え、部屋に静寂が戻る。


「ボロボロだったね! ごめん!」


 嫌味を言われる前に先に謝っちゃえ!

 椅子から立ち上がり両手を合わせる。

 ところが紅さまは、何も言ってこない。……あれ?


 無言のままの紅さまをそっと盗み見ると、困惑しきったような不思議な表情を浮かべていた。


「……紅くん?」

「あ、いや。――そうだな。もっと頑張れよ、ボンコ」


 軽く首を振り、紅さまはいつもの皮肉な笑みを浮かべて私を見た。

 

「この楽譜、借りていってもいい? アレンジなしの原曲に挑戦してみたいから」

「それはあげる。付き合わせた礼にはならないだろうけど」


 なんという太っ腹!

 単純な私は、それだけで舞い上がってしまった。

 楽譜をぎゅっと胸に抱いてお礼を述べると、紅さまはほろ苦く顔をしかめた。


「……どうみても普通の子なのに」

「ん? なに?」


 悪口の気配を察知し、聞き返してみたんだけど、紅さまはゆるく首を振るばかりだった。


「なんでもない」


 水沢さんの運転する車に乗せられ、家に帰るまでの間ずっと。

 耳の奥には、紅さまのヴァイオリンが歌う美しい『愛の悲しみ』が流れ続けていた。




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