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音楽で乙女は救えない  作者: ナツ
ルート:紅
144/161

35.Je te veux~紅視点~

 付き合い始めてからも、真白は真白だった。

 心を込めた口説き文句に照れるのも一瞬だけ。今まで付き合った子達のように頭が俺でいっぱいになって……なんてことはない。俺が言えた義理ではないことは重々承知してるけど、自分ばかりが惚れてる気がして、寂しいし悔しい。

 だけどその変わらなさに救われてもいる。


 物心ついた時から周りの無遠慮な視線に晒され続けてきたせいなのか、それとも生まれつきのものなのか、俺の心の一部はうまく機能しなかった。どんな事でも大抵は器用にこなせる子供だったのに、仄暗い穴を埋めることだけは出来ないでいた。

 巻き添えをくらった妹が重傷を負った時でさえ、加害者の少女には何の感情も湧いてこなかった。浮かんできたのは、必要以上に関わるんじゃなかったと云う自責の念だけ。

 他人への共感力が徹底的に欠如しているのだろう。己の機能不全に気づいたのはその時だ。

 

 相手の望む「成田 紅」を演じればいいんだ、と割り切ってからは生きやすくなった。

 にっこり笑って優しい言葉をかけるだけの簡単な仕事。必要以上には踏み込ませないテクニックも覚え、結果生まれたのは何の彩りもない世界。

 薄い膜で包まれた学生生活をどこか他人事のように送り、いずれ社会的な不自由を覚えないよう適当な相手と結婚し人生を終えればいい。両親や妹を泣かせるつもりはないから、世間体だけはしっかり取り繕わなければ。――そんな風に考えていた。真白あいつを好きになってしまった、と自覚するまで。



 

 特別実習が始まり、真白はますます根を詰めてピアノに打ち込むようになった。

 Aクラスの生徒は、希望のレッスンを受けることが出来る。ヴァイオリン専攻の特別招聘講師は有名な日本人ヴァイオリニストで、彼の名前を耳にした途端、真白の頬は薔薇色に上気した。


 「うっわ~。私、大ファンだよ! ねえ覚えてる? 子供の頃4人でコンサートに行ったことがあったでしょ。あの時、最後に彼がカプリースの24番を弾いたの」

 「……そんなこと、あったっけ」


 もちろん覚えている。

 真白と出会ってから後のことは、彼女がまだただの『ボンコ』だった頃のことから全て覚えていた。


 「覚えてないの? あんなにカッコ良かったのに」


 パン、パララララン。鼻歌でパガニーニの超難曲を歌いながら、真白はヴァイオリンを弾く真似をし始める。生き生きとしたその表情に、息が苦しくなった。

 何度『愛しい』と思わせれば気が済むんだろう。自覚がないところも、本当に憎らしい。


 「そんなに好きな曲なら、俺が弾いてやるよ」

 「え?」

 

 彼女の中で今鳴り響いている音色は、他の男が奏でたもの。

 相手が天才ヴァイオリニストだろうと関係ない。募る苛立ちに我慢できなくなった俺は、思わずそんなことを口走っていた。


 「ホント? やったあ!」


 人の気も知らないで、真白は無邪気に喜びながら俺の腕に飛びついてくる。

 柔らかな身体をすぐ傍に感じ、頬が熱くなった。抱きしめたい衝動を抑えて、ひとつ頭を撫でる。頼むから、余裕があるように見えてくれ。


 「じゃあ、特別レッスンでしっかり彼の魅力を盗んできてね。私もサディア先生のレッスンを頑張ってくるから。瞑想曲をみてもらうことになってるんだ。お互い更なるステップアップを目指そうぜ!」


 どうして俺がカプリースを弾くだなんて言いだしたのか全然分かってない顔で、真白は威勢良く拳を突き上げた。ほら、もう頭の中は特別レッスンの事でいっぱいになってる。

 どうやって曲想つけようかな。サディア・フランチェスカの瞑想曲を生で聴けるかもしれないんだよ? 倒れないようにしなくっちゃ。

 夢見るような眼差しで夢中になって話す真白を、じっと見つめてみた。


 「ん? どうしたの?」


 想いが通じる前は、こんな風に視線に気づいてくれることはなかったような気がする。

 いや、そういえば『今度はなに企んでんのか知らないけど、ジロジロ見ないでよ』と顔を顰められたことはあったな。

 俺を受け入れてくれたきっかけが何だったのか、今でも謎だ。


 「24のカプリースを上手く弾けたら、お前も何かくれる?」


 真白の細い指先を掴み、少し引っ張る。

 それだけで彼女はやすやすと俺の腕の中に収まった。


 「……いいよ。特別なやつ、あげる」


 恥じらいを含んだ眼差しと甘い声に、理性は崩壊寸前まで追い詰められた。

 時々真白はこうやって俺に爆弾を投げつけてくる。とっさに想像してしまった「特別なもの」と彼女のそれはきっと違う。分かっているのに、性懲りもなく期待してしまう自分が悔しかった。





 


 特別レッスン期間が始まった。

 真白は一時間の個別指導が終わるたび、興奮した様子で内容を教えてくれた。通訳なしではやっぱり無理だったこと。一生懸命イタリア語を勉強していたことを知ってるだけに、残念がってるかと心配したが、本人はケロリとしたものだった。

 

 「簡単な会話はできたけど、早口になるとお手上げ。来年はもう少し聞き取れるようになりたいな」

 「専門の通訳がつくんだから、何もそこまでこだわらなくたって」


 俺がいうと、真白は小首を傾げた。


 「そうなんだよね。通訳さんもプロなわけだし、信用してないってわけじゃないんだよ? でも直接お話出来たらもっとこう、色んなことが伝わる気がして」


 言葉を一旦切り、真白はたとえば、と瞳をきらめかせる。


 「紅だって私に直接好きって言われるほうが嬉しいでしょ? 蒼に『真白はお前のことが好きだってさ』って言われるのとどっちがいい?」

 「蒼に言われる方かな」


 間髪入れずに答え、ゆったり微笑んでみせる。

 真白は一瞬目を丸くし、そのあと赤くなって「ばか」と俺の脇腹を小突いた。可愛かった。


 

 俺の特別レッスンも終わった。

 一つの曲をバリエーション豊かに演奏しお手本を示してくれた例のヴァイオリニストには、複雑な気持ちがこみ上げたが、正直いえば感嘆した。世界に通用する音楽家というのは、こんな感じなのか。

 テクニックは言うまでもなく表現力がすさまじい。音色の艶も深さも、彼と己を比べれば大人と子供ほどの隔たりがあった。


 「成田くんのヴァイオリンは音が色っぽくていいね。欠点をなくそうと努力するより、他人と違う部分を磨いた方がいい。ミスは気にせずもっと大胆に弾いてもいいくらいだ」


 そこそこのレベルで綺麗にまとめるなんて、まだ早いでしょ。

 余裕たっぷりの大人の男にそう言われ、ただ頷くことしか出来なかった事を俺は忘れないだろう。負けず嫌いは真白の専売特許ってわけじゃない。


 クリスマスコンサートの演目に何を選ぶか、実習の渋沢先生に尋ねられた時、俺は迷わず即答した。

 

 「パガニーニの24のカプリース、24番でいきたいのですが」


 先生はピアノ伴奏ありの別の曲を考えていたようだった。やんわり再考を求められたが、俺が頷かなかったので最終的には折れてくれた。


 「ただ弾くだけなら出来ないこともないだろうが、観客に聴かせるとなるとなかなか骨だよ」


 溜息をつきながらも、次のレッスンからさっそく見てくれるという渋沢先生に丁重に礼を述べ、個室を出る。教室に戻ると真白が机につっぷしていた。何かあったのかと慌てて駆け寄る。


 「そんな顔しなくても平気よ。眠たいんですって」


 紺が苦笑を浮かべながら、唇の前に人差し指を当てた。

 暖房のきいたあたたかい教室に戻ってきた途端、強烈な睡魔に襲われたらしい。ピンク色の髪が一筋ふわりと流れ、真っ赤に熟れた頬があらわになった。


 「前の授業って……」

 「持久走。みんな面倒だからゆっくり流してるのに、マシロったらムキになっちゃって」


 抑えた声で忍び笑いをもらした美坂の話によると、寮で仲のいい先輩たちも持久走だったらしい。そこで真白は『負けた方がカフェテリアで栗ぜんざいを奢る』という賭けを持ちかけられたのだそうだ。


 「コウも知ってるはずよ。ほら、ミチ先輩ってマシロが呼んでる弦楽器科の」


 専攻が違うから直接話したことは殆どないのだが、真白の話にはよく出てくるのですぐに分かった。

 ――面倒見のいい優しい先輩だけど、人をからかうのも大好きだから困るんだよ。

 唇を尖らせた真白の可愛い表情付きだったから、記憶も鮮明だ。

 

 「おもろかったんやで~。ミチ先輩とマシロのデッドヒート」


 椅子に腰掛け足をぶらぶらさせながら、皆川まで口を挟んでくる。声量をできるだけ絞って皆が話そうとしてることに、胸が温かくなった。


 「結局、ミチ先輩の作戦勝ちやってんけどな。ゴール手前で突然『ううっ』とか呻かはってさあ。びっくりした真白が速度を緩めた瞬間に、サーッと加速して一位や。まさかこんな古典的な手にひっかかるとは思わへんかったって、後からえらい困ってはったけどな」

 「ズルして勝ったから賭けは無しでいい、ってミチ先輩が言ったのに、マシロは奢りますよ~、一緒に食べましょうよ~って笑うの。油断した方が悪いんですって」

 「真白らしい」


 心からそう思った。負けず嫌いのくせに、お人好しな真白。

 そう呟いた俺を、彼女たちは眩しいものでも見るような眼つきで眺めてきた。面映おもはゆかったが、悪い気分じゃなかった。




◇◇◇◇◇




 青鸞のクリスマスコンサートの日程は、毎年23日から25日と決まっている。高等部は24日だ。

 毎年付き合いの一環で他のコンサートにも足を運んでいたが、この先行くことはないだろう。今年の25日は向井さん率いるヴェルデ・フレスコ・オーケストラとコンチェルトを演ることになっているし、俺にはもう真白がいる。


 クリスマスコンサート直前の日曜日、俺は真白を自宅に呼ぶことにした。

 コンサートで披露する前に彼女に聴かせたかったからだ。

 制服姿を見慣れているからか、ざっくりしたニットに細身のジーンズを合わせたシンプルな私服姿にさえ目を奪われてしまう。オフタートルの首元からは、俺が誕生日に贈ったネックレスがのぞいていた。


 「外は寒かっただろう? 早くおいで」

 「うん、お招きありがとう。手ぶらでごめんね。……あれ、今日は田宮さんは?」


 俺の出迎えじゃ気に入らないのか。

 格好悪いと思いつつも、ついムッとした表情になってしまう。玄関先でロングブーツを脱ぎながら、真白は苦笑を浮かべた。


 「そんな顔しないでよ。珍しいなって思っただけだから」

 「今日は誰もいないよ。――俺と、お前だけだ」


 年上ぶった言い方が気に入らなくて、わざと声を低めて耳もとで囁いてみる。

 真白は面白いほど慌て出し、「き、今日はもうお、お暇させていただきましょうかね」とか何とか言い出した。


 「嘘だよ。ヴァイオリンを弾きたいから、構わなくていいって言っておいてあるだけ」

 「そ、そっかあ……アハハ、びっくりした」

 「なに。残念なの?」

 「それ以上からかうつもりなら、もう帰るからね!」


 今度はプリプリ怒り出す。

 目まぐるしく変わる表情の愛らしさに、手が動いてしまう。ところが真白は俺の腕をすり抜けると、一目散に2階へと駆け上がって行ってしまった。

 迷いない足取りでさっさと音楽室に入っていく彼女の背中を追いかけながら、こみ上げてくる幸福に酔う。――いつか本当に、ここがお前の家になればいいのに。


 

 音楽室に入ると、おのずと気が引き締まった。すぐヴァイオリンを調弦し、深呼吸して意識を高めていく。真白も無言のまま、あらかじめ準備しておいた一人掛け用ソファーに腰を下ろした。

 俺の緊張が伝わったんだろう、彼女の表情も固くなる。真白は音楽に関しては非常にシビアだ。観客としてこれほど怖い相手もいない。


 重音、左手によるピチカート。ヴィヴラートにグリッサンド。

 これでもかというほど高難易度な技術を詰め込んで作曲されたこの曲は、本当に難しかった。特に左手のピチカート部分。どうしても他の弦を弾き音が濁ってしまう。テンポを落とすことも出来ないので、ひたすら集中し狙っていくしかない。

 5分もかからない曲なのだが、弾き終わった後は全力疾走したあとのように息が切れていた。


 「――どうだった?」


 拍手をしたっきり何も言わない真白に感想を求める。どんな辛辣な意見でもいい。彼女の口から聞きたかった。真白は俺の目を見ると、唇を引き結び、うーんと唸って腕を組んだ。


 「また更に上手くなってるから驚いたし、この曲をここまで弾ける高校生は滅多にいないと思う。でも」


 言いよどむ真白を目で促す。


 「全力で弾きすぎてて、いつもの紅らしさが減ってる。一生懸命なパガニーニもいいけど、私は少しくらいミスしてもいいから、もっと挑発するみたいに格好良く弾いて欲しい、かな」


 ヴァイオリンは門外漢なのに、偉そうに言っちゃってごめんなさい。

 しょぼくれたように眉を下げ、真白は謝ってきた。


 「いや。……ありがとう」


 特別レッスンで彼に指摘されたのと似たようなことを言われ、内心驚いてしまった。惚れ直す、ってこういう心境の時に使う言葉かもしれない。


 「もう少し煮詰めてみる」


 ヴァイオリンを軽く乾拭きし、弓毛は緩めてケースに戻す。

 俺が片付けている間、真白はおどおどとこちらの様子を伺っていた。傷つけたんじゃないかと心配していることが丸分かりで、少し意外に思った。

 真白は俺に対し、もっと容赦なかったはずなのに。


 「なんか、ごめん」

 「お前の言ってることは的を射てると思ったし、怒ってなんかいないよ。一体どうしたの?」


 手が空いたので、彼女に近づき顔を覗き込む。真白は唇を震わせ、弱々しい声を押し出した。


 「――すごく頑張ったんだろうなって伝わってきたのに、素直に賞賛できない自分の可愛げのなさに絶望した」


 笑うまい、と思っても勝手に口元が緩んでしまう。


 「こんなんだけど愛想つかさないでね、紅」


 ああ、もう降参だ。

 俺は真白の足元に跪き、彼女をそっと抱きしめた。細く長い指が背中に回る。今日も羽織っているニットジャケットは、一番のお気に入りだった。


 「可愛い恋人が編んでくれたんだ。頼むから、引っ張ったりするなよ」

 「……うん」


 安堵したように小さく息をつき、俺の腕の中で頷いた真白に、今まで味わったことがないような激しい熱情を感じた。ぐっと奥歯を噛み締め、何とかその嵐をやり過ごす。

 そのまま真白を抱え上げて自室に連れ込まなかったことを、誰か褒めて欲しい。早く大人になりたい、と心から思った。

 真白は落ち着くと、恥ずかしそうに微笑みながら「お返しに一曲弾かせて欲しい」と言い始めた。


 「あれは上手く弾けたら、って約束だっただろう?」

 「上手かったもん」


 しばらく押し問答した末、ありがたく好意を受け入れることにした。

 俺だって真白のピアノは聞きたい。


 「では、特別なやつを。かなり照れるので、からかったら逆上します」


 真白はなぜか怒ったような顔で釘をさしてきた。ここは素直に頷いておく。

 やがてベーゼンドルファーが奏で始めたメロディに、俺は危うく声をあげそうになった。


 エリック・サティのJe te veux。

 

 『あなたが欲しい』という意味のピアノ曲を真白は軽やかに弾いていく。

 明るいメロディのはずなのに、どこか切なく胸が締め付けられるのは何故だろう。後悔なんてしない、ただあなたの傍にいたい。そう歌い上げる真白のピアノが、細胞のひとつひとつを満たしていく。

 

 俺はこの時、ようやく心から安心することが出来た。

 そのままで生きていっていい、と許された気分だった。

 

 どんなに言葉を重ねてもらっても、抱きしめてもらっても埋まらなかった最後の一ピース。

 

 仄暗い穴は、もうない。

 

 

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