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「紺ちゃん、今日はお疲れ様。すごく楽しかった」
大ホールからぞろぞろと生徒たちが退場していく。
満足げな表情を浮かべた真白ちゃんは、先に立ち上がった私を見上げてそう言った。
「うん。私もすごく楽しかったよ」
これは嘘じゃない。
あなたと一緒に音を合わせている時だけ、私は自分のピアノを肯定できる。血の滲むような努力も安らぐ暇を与えない焦燥も、あなたの音色に寄り添っている時だけは「これでいいんだ」って思えるの。
だからお礼を言わなきゃいけないのは、私の方なんだよ。
「ましろちゃん、ありがとう」
私の言葉を聞くと、一瞬虚を突かれたようにキョトンとした後、あなたは笑った。
「紺ちゃん、ありがとう」
何の混じり気もない、全開の笑顔。
胸が痛い。
嬉し過ぎて、幸せ過ぎて。
これは長い夢なんじゃないかと不安にさえなってしまう。
「じゃあ、これから理事長室で話し合いだから。また明日ね」
「ええ、またね」
紅の方を見ると、「俺も残るから」と私を見つめ返してきた。
冷静さを取り繕ってはいるけれど、あとほんの一押しで、彼の張りつめた糸は切れてしまうだろう。幼少期につけられた心の傷は、決して浅くない。
「紅。ましろちゃんを信じてあげて」
あなたが思うよりずっと、彼女は強いから。強くて、優しい子だから。
幼い頃から周囲の過剰な視線に晒され続けてきた紅は、どこか感情が麻痺してる所がある。何でも器用にこなしてしまえる生まれ持った才能も、紅にとっては毒だった。
しかも、私が刺されるという事件まで起こった。あれ以来、紅は異性に嫌悪感と不信感を抱くようになった。それなのに、飛び抜けて優れた容姿と父親譲りの色気が、自分の意志とは真逆の方向へと、彼を押し流していってしまう。
半ば自棄になっていた紅の目の前に現れた『希望』。
真白ちゃんと過ごしてるうちに、紅はようやく人並みの感情を覚えた。あの子の気持ちを信じることが出来れば、きっともっと幸せになれる。
そう思って喜んでいたのに、彼はどうやらハッピーエンドがお好みではないらしい。
「どういう意味?」
怪訝そうに眉をひそめる紅に「そのままの意味だよ。ましろちゃんの言葉を信じて」と告げ、踵を返した。
両開きの扉から差し込む逆光の中、トビーそっくりのあの男が私を待ち受けている。
私が目の前に立つと、男はわざとらしく大きな拍手をした。
「素晴らしい演奏だったよ、コン。キミの精神力には、感服せざるをえないね」
何を指しているのかは明白だ。
ちょうど富永さんの演奏が始まる直前に、この男は私の前に姿を現した。
その時、悟ったのだ。昨夜の事件には、こいつが関わってたいたんだ、と。
無言のまま隣を通り過ぎる。
こんな所では話せない。
傍からみれば、なにもない空中に向かって大真面目な顔で喋っている痛い子だ。
スタスタと桔梗館を出て、本館から少し離れたところにある休憩所に向かった。他の生徒は教室に戻った頃だから、人気はない。
「姿を隠せるんでしょう? 私のことも周りから見えなくして」
「なぜそんなことを?」
「話がしたいからよ」
痛烈に舌打ちしたいのを堪えて、睨みつける。
男は「我儘だなあ」とぼやいて、軽く右手を上げた。
「はい。お望み通り、2人きりだよ。話ってなに?」
「沢倉さんたちに何をしたの」
「おやおや、直球だねえ。マシロに似てきたんじゃない?」
クスクスと笑う彼を黙ったまま見据えていると、やがてつまらなくなったのか肩を竦めて笑い止んだ。
「話す義務はないけど、素晴らしい演奏とマシロのタフさに免じて教えてあげる」
男は芝生の上に置かれた瀟洒なベンチに腰掛け、隣に来い、というジャスチャーをした。
「座る必要なんて、あなたにはないでしょ?」
「まあまあ。こういう人間の真似事も楽しいもんなんだよ」
しょうがなく、少し間を開けて腰を下ろす。
彼は「どこから話そうかなあ」と、その美しい顎に指をかけた。
紅と真白ちゃんのデートを沢倉さんが目撃したのは、本当に偶然だったらしい。
「そりゃあもう、凄まじい程の嫉妬と羨望が燃え上がっちゃってね。美味しそうな匂いにつられて、ワタシも見物しに行ったわけ」
沢倉さんは、すぐに宮路さんや宇都宮さん、寺西さんなどのファンクラブメンバーに集合をかけた。
そして、仲睦まじく手を繋ぎ、寄り添う2人を尾行し始めた。
「言ってもド素人だからさ。途中何度も、勘のいいコウに気づかれそうになってたよ。その度、ワタシが助けてあげたんだ。見たくないなら追いかけなきゃいいのに、人の業って深いよね~」
2人きりでは決して出かけようとしなかった紅。
どんなに頼み込んでも手を繋いではくれなかった紅。
だけど、これからも高嶺の花として君臨し続ける彼を、皆で共有し続けていける、と割り切れば我慢もできた。私のモノにならないのなら、誰のモノにもならないで、と彼女らはひたすら願っていた。
ところが、そこに邪魔者が現れた。
誰の事も特別扱いしなかった優しい『紅様』を豹変させた外部生の魔女。
「マシロさえいなければ、っていう彼女達のドス黒い感情にね。ワタシはちょっと囁いただけだよ」
――排除しちゃえばいいのに、って。
澄んだ碧色の瞳を煌めかせ、男はそれは嬉しそうな笑みを浮かべた。
「面白かったな~。また、マシロが一歩も引かないんだ。『私に言うのはお門違い。紅に正面からぶつかっていきなさいよ。好きだから私だけを見て欲しい、って縋りつけばいい』って啖呵切ったんだよ、あの子。『それが出来ないなら、それでも駄目なら、諦めるしかない。そうでしょ? 本当は分かってるんでしょ?』って、泣きそうになりながら言ってたなあ。あれって、自分に対して言ってたのかな。ふふ」
――殺してやりたい。
激しい殺意に心が焦げてしまいそうだ。
友衣を純粋に想い続けていたあの頃のあの子を笑われるなんて、我慢できない。
「でも、あとちょっとの所で鳶が来ちゃってね。ジ・エンド。あれでピアノが弾けなくなってたら、今度は紅が壊れるところを見物できたのに、すごーく残念!」
心底ガッカリしたような表情を作り、男はしょぼんと肩を落とした。
「鳶を来させなければ良かったじゃない。あなたの分身なんでしょう?」
紅まで絶望に叩き落とすつもりだったのか。
煮えくり返る胸の内を隠し、平然とした口調で指摘すると、彼は残念そうに首を振った。
「前にも言ったデショ。ワタシは神じゃないから、ゼロから創造することは出来ないって。鳶は、ワタシの欲の一部を植えつけた、ただの人間。契約もしてないから、駒ですらない」
「そうなの。それにしては、彼もえらく根性が捻じ曲がってるわね」
もっと情報が欲しくて水を向けてみたが、男はニヤリ、と笑って人差し指を立てた。
「ダメダメ。その手には乗らないよ。これはワタシのゲームなんだから、キミは盤上の駒として全力を尽くせばいいの」
そして、そのまま指を上に向け、ぐるりと円を描く。
突如として空中に浮かび上がったスクリーンには、理事長室とおぼしき部屋の様子が映し出され始めた。
「どうなったか、気になるでしょ。ワタシと一緒にマシロの選択を見てみようよ」
◇◇◇◇◇◇◇
理事長室には、大人が10人近く集まっていた。そのせいで、部屋が狭く見える。
トビーだけでなく、学院長も来ている。
真白ちゃんのご両親はもちろん、成田の父までいるのには驚いた。
相対する加害者側の保護者は、青褪めた表情でトビーの言葉を待っている。
沢倉さん達は悄然として項垂れたままだから、表情までは読み取れない。
そんな彼女たちを視界にいれまいと紅は顔を背け、真白ちゃんだけがまっすぐ前を向いていた。
「お聞きの通り、被害者である島尾さんは大事にしたくない、と主張しています。ですがそれは、頭部に怪我を負い、当時の記憶を失っているからだと僕は思っています。集団で抑え込まれ、指を折られそうになった。――今日の彼女の演奏を聴きましたね? コンクールでの優勝実績もあるピアニストとして有望な特待生の指を、彼女達は折ろうとした。この学院の理事長として、いえ、その前に音楽を愛する一人の人間として、決して看過することが出来ない事件です」
もっともらしい言葉を羅列して、トビーは彼らを退学に追い込もうとしている。
「傷害事件としての立証が難しいとしても、事が公になればマスコミは黙っていないでしょう。学院を巻き込む醜聞となり、結果、君たちが社会的に抹殺されることになったとしても、やむをえないと僕は思ってる。しかも調べたところによると、君たちの島尾さんへの嫌がらせは入学直後から始まっていたとか。器物破損、窃盗などの証拠も探せば出てくるかもしれない」
相変わらずえげつないやり方だ。
慌てふためく加害者の保護者たちを見て、トビーはひっそりと口角の端を上げた。
とうとう、宮路さん達は泣き出してしまう。
土下座せんばかりの勢いの相手側の親の謝罪を受け、真白ちゃんの顔は引き攣った。
「あの。――謝って済む話とそうじゃない話があるとは分かっています。だけど、私達はまだ15です。間違っちゃうことだってあると思います」
「ましろ!」
彼女がどんな意図を持って口を開いたのかいち早く気付いた紅が、真白ちゃんを阻止しようとする。
だけど、彼女は「お願い、紅」の一言で兄を黙らせてしまった。
「もうこの学校にいたくない、っていうなら別ですけど。もし、まだ音楽が好きで、この学院も好きで、ここで学びたいって思ってるなら、私は一緒に頑張りたい」
そう言うと思った。
馬鹿みたいに人のいい面ばっかり見ようとする所、全然変わってない。
――そんなあなただからこそ、私はどうしても諦めたくなかったんだ。
「同情、してるの? 選ばれなかった可哀想な子だって、自分は違うって!?」
ただ一人、泣いていなかった沢倉さんが、真白に食ってかかろうとする。
紅はすかさず前に立ち、両手を広げて真白を背中に庇った。
「俺に言えばいい。元はといえば、俺に対しての恨みだったはずだ。ましろに触れるな」
「紅様っ! どうしてその子なんですの!?」
「はっきり言わなかった俺が悪いんだね。――君が嫌いだ。執着も妄想も、気持ち悪くてしょうがない。だから、名前で呼ばないで欲しい。俺の大切なましろにも、二度と近づいて欲しくない」
基本的に女性に対して厳しい態度を取り切れない紅がここまで言うとは、予想もしていなかった。
成田の父が「言い過ぎだぞ、紅」と咎めても、紅は聞き入れず、呆然と目を見開く沢倉さんを静かに見据える。
「聞こえた? 憎いと思うのなら、次は直接俺を狙って」
魂が抜けたように微動だにしない沢倉さんを、父親らしき人が抱き寄せる。
「島尾さん、成田さん。本当に申し訳ありませんでした」
深々と腰を折る保護者達に合せて、宮路さん達も慌てて頭を下げる。
沢倉さんのお父さんも、誰よりも深く頭を下げていた。
一人、うつろな表情を浮かべ動こうとしない沢倉さんを、真白は痛ましそうに見つめていた。
◇◇◇◇◇◇
「なーんだ、つまらない」
男は興味を失くしたように両手を下げ、その動きに合わせてスクリーンも空中にうっすらとした煙を残し消えていく。
「マシロは頑固だなあ。もっと悲劇のヒロインぶれば面白い結果になりそうなのに。神経、図太すぎ」
今となっては手出しもできないしなあ、と彼は続けて言った。
「……どういう意味?」
「え? ああ、これは隠すようなことじゃないか。真白は、このゲームを友情エンドでクリア済みなの。だから、ワタシが彼女に直接働きかけることは出来なくなっちゃった」
初耳だ。
じわじわと喜びが込み上げてくる。
そうなんだ。もう、真白ちゃんは安全なんだ。
私の感情の高ぶりを感知したんだろう、男は片眉を上げた。
「でもメインプレイヤーは、キミだからね? コン。キミが失敗したら、このゲームは終わり。キミとマシロは元の世界に強制送還され、そしてキミたちの命はワタシがもらう」
「そうはならないって言ってるでしょ」
あの子が私の知らないところでこの男に消される可能性は、もうない。
そう思うと、心が飛び立ちそうに浮き立った。
後は学コンで一位を取り、トビーが失った『理想のピアニスト』の後釜に納まればいいだけ。
明るい気分で男を見つめ返す。
私の視線を受け止め、彼はクツクツと肩を揺らして笑った。
「どうかな。君の孤独は変わらないよ。誰にもだんまりの理由を話せないなんて、まるで『白鳥の王子』の妹姫みたいだね。試練はまだ残ってる。せいぜいあがいて、ワタシを楽しませて」




