可逆的
リュープロレリン。
元々は前立腺癌や子宮内膜症の薬として開発され、承認されたものである。性同一性障害の特効薬としての承認はされていない。
脳卒中や筋肉の萎縮、骨粗しょう症や不妊という重大な副作用があり、十二か月以上の服用は推奨されない。
しかしこの薬を思春期の子供に投与することで二次性徴が抑制されるという効果が認められており、特に欧米を中心に『モラトリアム』期間として十代の子供の二次性徴を止めるために濫用されている。
「副作用は存在しない。二次性徴を一時的に止めることが出来るホルモン剤だ。しかも投与をやめればすぐに二次性徴が再開する完全に可逆的な理想の薬だ。安心しろ」
そんなバカな話があるわけがない。副作用が存在しない薬などというものは存在しない。ユキはそこまでの知識はないものの、直感的にアキラの言っていることが嘘だという事は分かった。
「ちょ、ちょっと待って、成長を止めるんでしょ? ってことは投与している間の分だけ成長が遅れる、成長が少なくなるって事じゃん。可逆的な薬だなんて、そんなことあるの?」
そして何よりも彼のおかれている状況がこの状態が危機であることを主張している。本当に可逆的で安全な薬なら彼の身体を拘束したりなどしないはずだ。
「アメリカの多くの医師がそれを保証している。大丈夫だ。
尤も、今のアメリカでこの薬の危険性を訴えたりしたら差別主義者として家が燃やされるがな」
「そもそも!」
何とかして話を止めようと必死なユキ。まさしくファッション感覚でやっているだけの女装なのに、そんな訳の分からない薬剤を投与されたらたまらない。
「先生医師免許も薬剤師資格も持ってないでしょ? どっからそんな薬手に入れたの! 性同一障害の診断も、注射もできないでしょ!!」
「安心しろ、覚醒剤をやってたから静脈注射はお手の物だ。まあ、薬を手に入れるのは苦労したがな。堀田コウジ先生がいればもっと簡単に手に入るようになったのにな」
そう言って笑うと少し後ろに下がっていたジャキも同じように笑った。
同時にユキの顔は青ざめる。
やはりホストクラブなんて来たのがそもそもの間違いだったのだ。「覚醒剤」という単語は彼にそれだけの後悔をさせるには十分な言葉だった。
ホストクラブ、元ヤクザのオーナー、そして悪魔となった人間、山田アキラ。「ちょっと冒険してみたい」なんていう好奇心で近づくにはあまりにも危険すぎる相手。そんなことは最初から分かっていたはずなのにメイや母親への反発から気軽に近づいてしまった。
「まあそう深く考えるな。君もこの薬を注射するだけで声変わりや不要な筋肉がつくのが抑えられて、今のままの美しい少年の身体を維持できるんだ。願ったりかなったりだろう。それとも覚醒剤も欲しいのか? この欲張りさんめ」
「フェリア! フェリア、助けて!!」
黒猫のフェリアに助けを求めるが、しかし彼は素知らぬ顔で毛づくろいをしている。
「子供じゃないんだから自分の行動に責任を取るニャ。それともボクみたいに去勢してほしいかニャ?」
ここに味方など一人もいない。
「ユキ君」
アキラが真剣な表情をしてユキの髪の毛を鷲掴みにする。
「いいか、君はこの薬を注射するだけで成長を止められるんだ。何故それを拒否する? まさかとは思うが君は差別主義者なのか?」
「差別……? なにを」
恐怖のあまり涙が溢れ出る。悪魔に誘拐された時ですら、ここまでの恐怖は感じなかった。あの時助けに来てくれたメイも、母親も、ここにはいない。
「君はトランスジェンダーを差別している。だから、そんな汚らわしいものの仲間になりたくないと、つまりそういうことだな? そんな差別主義者を、生かしておくことは出来ない」
低く、ドスの利いた声。
まさかそんなことはないとは思うが、ここでヘタに逆らえば、本当に殺されそうな、そんな気がしてくる。
しかし彼の「まさかそんなことは」という甘い考えはここまで否定されてきたのだ。自分の人生を楽しく彩ってくれるものだと思っていたサザンクロスは、覚醒剤を乱用していたような人間が代表を務め、どこからか調達してきたホルモン剤を医師の資格も、診断書もなしに未成年に投与しようとしているのだ。
ここはとんだ『地獄』だった。
自分から飛び込んだ場所は、地獄だったのだ。
「お……お母さん」
声がかすれる。助けを求める声を聞き遂げる者はいない。針が腕に刺さり、ゆっくりと注射器のプランジャーが降りていく。
「そこまでです!!」
バタンと力強くドアが開けられ、姿を現したのはダッチワイフの少女、ユリアだった。
「嫌がる少年にお注射しようなんて言語道断!! そんなに注射したいんならユリアにするといいですよ!!」
そう言ってユリアは床に仰向けに寝転がって両足を上げる。猪木アリ状態の猪木の方である。
「注射はもう終わったが?」
「あ、そうですか」
ハイテンションから一転、冷静な返しで起き上がるユリアは、すぐにユキの元に駆け寄った。ユキを拘束していたジャキの糸はもう解かれているが、彼はショックのあまりぐったりして立ち上がることが出来ない。
「大丈夫ですか、ユキさん?」
心配そうに話しかけるユリアを後目に、スケロクとジャキ、それにフェリアは控室を後にした。
「しかし本当にこんなことで奴が魔法少女として目覚めるのか?」
「そんなわけないニャ」
アキラの問いかけに、けんもほろろな返し。アキラは少し呆れた表情をする。
「ただ、このまま放っておいてもユキの才能が開花するとは思えないニャ。ショック療法でも、何か変化が必要だったニャ。ホルモン剤の投与はこれからも続けるニャ」
肩をすくめて大袈裟なリアクションをするアキラ。この二人の立ち位置も謎ではある。
「ただ、ユキが眠っている才能を目覚めさせれば、この社会を根底からひっくり返すことが出来るほどの力があることは間違いないニャ。そうすればお前らの『仕事』もやりやすくなるニャ」
「たしかにな」
興味なさそうに言葉少なに答え、それから数歩歩いて、アキラは立ち止まった。
「そういえば魔法少女の使う魔法にはリスクがあるかもしれないとかスケロクが言ってたが、どうなんだ? 本当にそんなものがあるのか?」
振り向くと、フェリアは立ち止まっていた。暗い廊下の中、彼の緑色の目だけが不気味に光っている。
「当然あるニャ」




