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すばらしきかなこの世界  作者: 蝉時雨
第一章 クランコンテスト編
40/54

第一章(39) 約束の果て

◆Firo◆


 本当は解っていた。

 ただ、認めたくなかっただけだ。

「――母さんっ!」

 振り下ろした刃はその場で捨て去った。何よりもまず大切なことは一つ、自宅で待つ母の事。他の事など、フィーロを止める理由にはならなかった。

 シェリカを抱き抱え、自宅の扉を突撃せんばかりの勢いで開けた。抱えた彼女の身体を降ろし、横たわる母の横に急ぎ寄る。

「母さん! 俺、約束守ったよ……!」

 とても嬉しそうに報告をする。フィーロはメーアの身体を軽く揺すり、何度も呼んだ。

 きっと期待していたのだろう。「よくやったね」と頭を撫でてくれる。この身体を抱きしめ、傷付いた身体を労ってくれる。「さすがわたしの子ども」と褒めてくれる、と。それだけで全てが報われる。救われる。

 メーアはしかし何も答えない。フィーロは身体を揺すり続けた。母を呼び続けた。

「母さん。ねえ、母さん。母さんってば」

「フィーロ……」

 シェリカの啜り泣く理由が解らなかった。泣く必要などないのに。

「俺、ちゃんと約束守ったんだ。シェリカを守ったんだ。ねえ、聞いてよ」

 少しだけ強く揺する。するとメーアの頭は力無く横を向いた。

「もしかして、寝てるの……? なあ、シェリカ。母さん、寝てるのかな?」

「……っ。お母さんは……」

「なんで泣くんだよ」

「お母さんは……もう……」

 言葉を濁すシェリカは、言葉を喉に詰まらせ窒息するんじゃないかというほどえずいていた。その翡翠色の瞳は涙で歪み、見るに耐えなかった。痛々しかった。

「シェリ……」

「お母さんはっ……!」

 裏返って掠れる声。悲痛さを帯びたそれはフィーロの肩を一瞬震わせた。

 フィーロが伸ばした手は、シェリカに届くことはなかった。

「お母さんは……もう、死んだの……死んだのよ……」

 思考は止まっていた。そもそも始めから動いちゃいない。だから今のフィーロにはそんなことすら理解できていない。もちろん、シェリカの言葉の意味も。

 だからフィーロは笑った。

「何を言ってるんだ、シェリカ。母さんが死ぬわけないだろ。だってほら、」

 こんなに安からに眠っているんだから。

 そう横たわるメーアを見つめる。そんなフィーロを見るシェリカの表情は今にも崩れ落ちそうなほどに脆く悲しげだった。

 フィーロにはその目がいたく癪に障った。

「フィーロ……」

「五月蝿いッ!」

 シェリカの身体が小さく跳ねる。

「シェリカは母さんが死ぬとでも思ってるのか!?」

「そんな……あたしは……」

「あんなにも優しい母さんが! 俺たちを心から愛してくれる母さんが! 死ぬと思ってるのかよ!」

「……あたし……は……」

「それとも……それともシェリカは母さんに死んで欲しいのか……!?」

「……っ! そんなこと……思うわけないじゃないッ!」

 渇いた音が響いた。

 じんと痺れるような痛みが広がる頬をなぞり、フィーロはシェリカを見た。シェリカは大粒の涙を流していた。ぶった方が泣くなんて。フィーロは呆れると同時に、頬よりも、傷よりも、胸が一番痛いのに気付いた。

「そんなこと……思うわけ、ない……でも、もう……お母さんは、死んだの……もう、いないのッ……!」

 ゆっくりと、言い聞かせる。嗚咽混じりの声で。途切れ途切れに。そして最後に吐き出して、泣き出した。

 フィーロは思った。俺は馬鹿だ。解っていたはずだ。シェリカがそんなことを思う訳がない。あの涙は紛れも無く、俺自身のせいなんだ。

 だけど、それでもフィーロは認められなかった。

「じゃあ……」震え掠れる声は自分の声とは思えなかった。「じゃあ俺、なんのために……人、殺したんだよ……」

 解っていたのだ。

 心臓を貫かれた人間が、そうそう生きていられる訳がない。何かしらの処置を施せれば可能性はあるかもしれないが、ここは医術に長けた者がいない辺境地。万に一つ可能性があればそれは奇跡だ。だから、それくらい解っていた。

 認めたくなかっただけだ。

 認めればフィーロに残るのは人を殺したという事実だけだ。

 人の命は軽く、尊く、そして泥のように重くこびりついて来る。

 ――俺は、お前を、許さない。

 あの言葉が頭から離れない。

 あれは殺された者の怨嗟だ。

 俺は、それを抱えなくてはならない。否応なしに。

 俺を支える世界は、もう壊れてしまったのに。

 支えるもののない宙ぶらりんな俺の心は、もう落ちていくしかないのに。

「俺はッ……! 俺はあああああッ!」

 落ちる俺はもう叫ぶしかなかった。身が引き裂けそうなくらい痛くて、息が出来ないほどに苦しかった。

 壊れそうな自らの身体を抱えてみても、痛みも苦しみも解放されることなどない。もうどうしようもないくらいに、全てが手遅れだったのだ。

「フィーロ!」

 そんな中でシェリカだけが落ちゆくフィーロを繋ぎ止めようと抱きしめた。

「フィーロは悪くない! フィーロは悪くないの……! だから……お願い。自分を責めないで……!」

「でも! 俺は! 母さんを……!」

「それでもあたしは助けてくれた! 守ってくれたじゃない!」

「だけどそこに母さんはいない! いないんだよ!」

「だったら! あたしが代わりになるから! あたしがフィーロを守るから! だからもう……これ以上苦しまないでよ……」

 流す涙も涸れ果て、目元は赤く腫れたシェリカの嗚咽も、吃逆混じりになってきていた。

「フィーロの苦しむ姿なんて……もう見たくないよ……」

 シェリカの顔が近づく。

 鏡合わせのような、自分とそっくりの顔が。

 違うのは瞳と髪。その二つともが、まばゆい輝きを放っていた。まるでそれが神威そのものであるかのように、光り輝いていた。

 ひたすらに美しかった。

 目が焼かれそうなほどに眩しくて、だけど目を開けずにはいられなかった。それほどまでに、美しかったのだ。

 もういっそのこと焼かれてしまえばよかったのかもしれない。そうすれば、この苦しみからも解放される。何も見えなければ。

 光は暖かくて、切なかった。

 まるで全てが夢だったかのようで。

 だんだんと微睡んでゆく。

「――フィーロは、あたしが守るから……」

 微かに、優しい声が響き、そして霧散した。


◆◆†◆◆


 意識が流転する。

 暗闇の中に漂い続けるフィーロは、小さく息を吐き出した。紅い双眸はこちらを見つめたままだ。だけど、全てのピースが合わさってしまった以上、それが何かを知ってしまった以上、フィーロは手を伸ばさずにはいられなかった。

 ……ああ、そうだ。その目は俺の目だ。

 俺はあの時、どうしようもなくぶっ壊れていて、どうしようもなくぶっ飛んでいた。

 自分の世界を守るために、何もかもを殺した。その時の目だ。怪物の瞳。

 結局、それでも俺は守れなかった。

 なんで忘れてしまっていたのか。今となっては解らない。でも、なんにしても、自分自身の弱さが原因なんだろう。

 母さんのことを忘れることで、自分の抱える罪を忘れ去りたかったのだ。それでも母さんとの繋がりだけは失いたくなくて、俺はずっとこうやって剣を持ち続けていた。

 シェリカを、守るために。

 思い出さなければよかったのだろうか。

 思い出したところで後悔の念しか浮かんでこない。でも思い出さなければ、五年もの間こんな重荷をシェリカ一人に背負わせていたことにすら気付かなかっただろう。

 母さんは言った。俺はシェリカの騎士なのだと。

 騎士とは誰かを守る者だ。

 俺はシェリカをちゃんと守れていたか?

 自分の罪を背負わせておいて、本当に守れていたと言えるのか?

「言えるわけ……ねーよな……」

 モニカに言った言葉が自分に返って来るとは。それに面と向き合って肯定出来ないとは。思いもよらなかった。自嘲の笑みすら零れてくる。

 今、同じ事が起きようとしている。

 また俺の世界は脅かされている。

 繰り返して言い訳がない。

 世界の事なんざどうでもいい。ただ、“俺の”世界は俺だけのものだ。誰にも踏み入らせはしない。

 俺の世界。

 母さんとの約束。

 とどのつまり、シェリカだ。

 なら答えは一つだ。

 やることは、一つしかない。

 贄の女王サクリファイスクイーン。あのクソババアだ。あの奇天烈オバンの世界が俺の世界を脅かすっていうなら、

「あいつの世界を……ぶっ殺すだけだ」

 今度こそ、守るのだ。

 俺は盾。

 でもそれは俺の身体。

 心には剣を。

 その目は、真っ直ぐ紅い双眸を見つめる。

 もう迷わない。

 戦うのは怖くても。怨まれるのが苦しくても。何かを失う事が痛くても。

 世界シェリカが在れば、それでいい。そのためなら、なんだってやってやる。どんな重荷でも背負ってやる。

 だから、

「とっととそいつを寄越せよ」



◆Ganache◆


「――つまり……あれは生徒ってことですか」

「そのようですね。言うなれば浸蝕と呼ぶべきですか。もともと《贄の書》の魔術は降臨魔術と呼ばれます。つまり術者を触媒とし、異形と同化するのです。……この場合、おそらくは不完全な召喚によって降臨がなされずゲートである術者を浸蝕する形になったのでしょう」

 よくもまあ、そんな冷静な分析が出来るものだ。感心すらしてしまう。

 が、問題はそこじゃない。

「助かるんですか?」

「万に一つで」

 それはつまり不可能に近いってことだ。そしてイネスはその万に一つに賭けるような女ではない。それに異を唱えたのはマルスだった。

「イ、イネス先生。あれはきっとノーワンだ! ローブで解る! 彼は学年次席ですよ! なのに彼を見殺しにするってことですか!?」

「助かったところで、あれでは自我が崩壊し廃人になっている可能性の方が高いです。むしろゲートごと破壊してしまったほうが楽です」

「な……破壊ってそんな……」

「そもそも禁術に手を出したのです。無事でいられると思う方がどうかしています」

「でも、先生が生徒を見捨てるなんて……!」

「普通の魔術士の師弟関係なら破門されていておかしくないレベルです」

「……」

 一切の反論を受け付けない物言いに、さしものマルスも黙りこくるしかなかった。一瞬の静寂が場に降りる。それを見兼ねたか、エリックが割って入ってきた。

「まあ、なんにしても、だ。あれをどうにかしなきゃならねーことに変わりはねーよな」

「救う救わない以前の問題だな」

「そうね。あまり猶予もないようだし」

 バルドとルミアもそれに同調した。

 確かにルミアの言う通り、時間はない。なんせ現在進行形で《見捨てられ子》も増えているのだ。今はまだ喋りながらでも軽く潰しているが、これ以上増えると厄介だ。

「でも……困りましたねぇ」

 話も纏まりかけたところで、キールがおもむろに口を開いた。

「あれを倒すのに手っ取り早いのはゲートを壊すことですから……それが出来ないとなると……」

「――関係ないわ、そんなもの」

「シェリカ……?」

「あたしはね、あの気持ち悪い年増女を消し飛ばせればそれでいいの。だって、あの年増女フィーロを傷付けたのよ? 死をもって償うべきだわ。むしろ殲滅戦よ」

 発言が完全に傍若無人である。

 ガナッシュはおろか、その場のほぼ全員が呆れともつかない表情でシェリカを見つめていた。というか話聞いてた?

「とっとと魔術ぶっ放したくてうずうずしてんのよあたしは」

 どこのトリガーハッピーだ。

「というわけだから、この際小難しい話はなしよ。潰すか消すかだわ」

 ナチュラルにジェノサイド思考だった。

 まあ、うちの性に合ってるっちゃ合ってるが……今回は人の命がかかってる。そう簡単な……話か。シェリカにとっては。全ての優先事項がフィーロなんだから、他がどうなろうとお構いなしなのだ、彼女は。

 いっそ清々しいくらいにぶっ飛んでいる。

「えー……で、どうすんのこれ結局」

 エリックがなんとか話の軌道修正を図る。この中の常識人でさえ、収拾がつかなくなってきているようだ。少し同情する。

 そんなガナッシュの同情にも気を留めることのないシェリカは腰に手を当てて高らかに叫んだ。

「決まってるわ! 抹殺よ!」

 正直、あっちよりよっぽど魔王だ。


◆◆†◆◆


「――嶺月WxDDo羅葦節AX忘念SOLiD水崩旋」

 シェリカの詠唱とともに、大波が現れる。ガナッシュの技、大波グロスヴァーグに似ているかと思ったが、違った。いきなり水が渦を描き、一本の槍のような形を形成した。

 あれはただの水ではない。極限にまで圧縮された水の槍だ。当たればどういうことになるのか、もう当たらないと解らない。とりあえず凄いことになるんじゃないだろうか。酷い意味で。

 というかあの女の魔力はどれだけなんだ。底無しか。

 ルミアですら後方に待機しているのだ。というか魔術士は前線に出ない。今はフィーロいないんだから下がれ頼むから。

 そんなガナッシュの思いもシェリカにはどうでもいいらしく、指一本指し示す動作だけで槍を放った。

「水の精霊ごときで闇の魔術が破れるものか、身のほどを知れ!」

 贄の女王は甲高い声を上げ、黒い蛇のような無数の触手を放った。一気に束になり、シェリカの水の槍と同じくらいの大きさになると、瞬間激突した。

 水の槍は、黒い槍を呑んだ。

 ビシ、ビシ、と軋む音が鳴る。同時に、束になっていた影が分離し、後方に飛び出た。え、ちょっと待て。

「うおおっ!?」

 ガナッシュは慌ててその場から飛び退いた。黒い触手がガナッシュのいた場所を一直線に貫き、地面に刺さった。

「おま……危ないだろ!」

「そんな攻撃効かないのよ! ざまあみなさい年増女うはははは!」

「おい聞け!」

 シェリカは後ろの様子などには目もくれず高笑いしていた。

「つーかあのお姫様はなんだよ!? ホントに味方なの!?」

 エリックが顔面蒼白で叫んでいた。多分ボクに向かって言ったんだろうけど、どう答えればいいのだろう。味方なはずなんだが、自信がない。

「危うく刺さるところだったぞ……」

「後ろに弟いるのになんて女だ……」

 同じくヴァイスとバルドもさすがに冷や汗ものだったらしい。

「ちょっと! なんか飛んできてんだけど!?」

 モニカの声も聞こえるあたり、相当散乱したようだ。一体何を考えているんだろう、この馬鹿女は。後ろに人がいるの解ってるんだろうか。そこに最愛の弟も含まれているんだぞ?

 お転婆通り越して暴風雨である。

 実際何を考えているんだろう。きっと何も考えていないんだろう。

 当然、敵も怒髪天を突くくらい怒っていた。もう顔が完全に歪んで、恐ろしいことになっていた。

「痴れ者が……予を愚弄するかアアァァァァ!」

 黒い球体が無数に浮かぶ。

 先ほども苦しまされたあの魔術だ。しかもさっきより心なしか数が多い。

 シェリカはしかし動かない。

「ふん! かかってきなさいよ!」

 むしろ挑発していた。絶対に頭がおかしい。

「あんの馬鹿……!」

 ガナッシュは全力で駆け出した。

 球体から円錐状の刺のようなものが飛び出る。それが伸び切るよりも早く、踏ん反り返るシェリカの首根っこを引っつかんで退避した。「ぐえ」とかいうおおよそ女らしくないくぐもった声が聞こえた気がしたが、この際無視した。いい気味だ。

 咳込むシェリカは、涙目でガナッシュを睨んだ。

「な……何すんのよ!」

「お前こそ一体何を考えている! あの状況からどうするつもりだったんだよ!? 下手したら死んでるぞ!」

「はあ? 魔術で防いだに決まってるじゃない!」

「だから! あいつは普通の魔術は効かないんだって!」

「やってみなきゃ解らないじゃない!」

「やってみての結界だ!」

「あたしは天才よ! 余裕だわ!」

「どこからそんな自信が沸いて来るんだ……」

「――おい、逃げろ馬鹿二人!」

「え……?」

「は……?」

 誰かの叫ぶ声で口論をやめたはいいが、ガナッシュとシェリカは同時に呆けた声をあげた。というか、あげざる得なかった。

 ものの見事に球体に囲まれていた。

 ネズミ一匹すら通り抜けられないほどに敷き詰められ、完全に取り囲まれていた。

「ちょ……これあんたのせいよ」

「いや……お前のせいだ、馬鹿女」

 内心で猛烈にシェリカを罵倒しつつユーカリスティアを手に取る。同時に、激しい吐き気と目眩に襲われた。視界が蜃気楼でも見ているかのようにぐにゃりと歪んだ。

 しまった……限界か。

 ユーカリスティアに喰わせていた自分の魂がすでにギリギリのラインにまで達したのだ。言うまでもない。これまでも無理をし過ぎていた。

 正直、フィーロの忠告を聞いておくべきだったのかもしれない。譲れないものがあったから、どうしても出来なかったが。

 なんにせよ、もう限界ということだ。

 これ以上は、本当に死ぬ。

 だけど使わなければ、結局死ぬ。

「クソ……」

 本当にボクはこの剣におんぶ抱っこだ。情けない。

 あと一回……あと一回だけいけるか?

 もしいけなかったらボクは今日から廃人だ。というか全身風穴だらけの骸だろう。賭けにしてはあまりに大きすぎるリスク。

 ガナッシュはこの時想像してしまった。最悪の事態を。それは弱気だ。弱気は一瞬の躊躇いを生む。それは身体を硬直させ、咄嗟の行動を大きく鈍らせる。

 本当に何をやっているんだ、ボクは。

 黒い球体が泡立った。ぼこり、ぼこりと泡立ち鋭い剣、あるいは槍を生み出しガナッシュとシェリカを強襲した。もはや避けることすら叶わない。

 ここまでなのか……ボクは。なんて間抜けな死に様だ。

「ガナッシュ……!」「シェリカちゃん……!」「おいルーキー! クソ、間に合うか……!?」「ルミア、お前の加護で……!」「無理よ……! こんな短時間じゃ!」「ほなオレが行けば……つーか諦めんなガナッシュアホー!」

「な……お前……」

「え、ちょっと……」

「そんな……まだ……」

「………うそ」


「――フィーロ君……!?」


 いくつもの叫び声が交錯する中で、その名前がどうしてこんなにも鮮明に聞こえたのか。

 答えは目の前にあった。

 黒い球体が不自然な形に歪み、まるでただの泡かなにかだったかのように弾けて消えた。放たれた黒い剣や槍はガナッシュの顔面に届くか届かないかという距離で停止し、同じように散ってゆく。

「馬鹿な……貴様はアアァァ!」

 贄の女王の顔がいっそう歪む。しかしそれは化け物らしくない、どこか恐怖の入り混じった驚愕の表情。とはいえ、奴の微かに残った人間性などガナッシュにはどうでもよかった。

 それ以上に見入っていた。

 一陣の風の如くガナッシュの目の前に降り立つそいつの姿に。

 さっきまで傷だらけで、死にかけで、盛大にぶっ倒れていた男に。

 フィーロ・ロレンツに。

「――よう、お早うさん」

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