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「あの……治癒をお断りになったのは、やはり私がギル様を忘れてしまうからでしょうか?」
カップの底が見えてきた頃、ヘルミーナはベルを鳴らしてメイドを呼んだ。
しかし、お茶を運んできたのはフィンだった。彼は慣れた手つきでカップに紅茶を注ぐと、ギルの体調を気遣った。
ギルは「大事ない」と口にしたが、皺が刻まれた顔には疲労の色が浮かんでいる。淹れてもらった紅茶を最後に、長話もそろそろ切り上げたほうが良いだろう。
ヘルミーナはフィンに目配せし、再び二人だけになってから、改めてギルに理由を訊ねた。
光属性の神聖魔法を受ければ失った足は元に戻り、もう一度両足で立ち上がることができる。車椅子だって不要になり、今までよりずっと楽に生活できるようになるはずだ。
けれど、ギルは静かに首を振り、口元を緩めた。
「これまで王室の話はしたが、儂はもう自分の運命を受け入れておる。だから、お前さんが気にすることはない。それから、魔道具の代金ならアルバン……レイブロン公爵からすでに受け取っておる」
「ですが、王室に纏わる重要な話をしてくださいました。私からも何かお礼を……」
王国を代表する四大公爵の一当主を呼び捨てにできる相手に、ヘルミーナが返せるものといえば治癒を施すことぐらいだ。
けれど、ギルは右手を持ち上げてヘルミーナの言葉を遮ると、苦笑を浮かべた。
「──今ここでお前さんに治してもらったら、儂はこれまでの苦労を悔やむだろう」
目尻に皺を寄せたギルは、顎を撫でて深い溜め息をついた。
生まれながらに運命を背負った彼の人生は、平坦ではなかったはずだ。何より、両方の足を失った姿を見れば、想像を絶する経験をしてきたことも分かる。
だからこそ、怪我を治して本来の体を取り戻してほしかった。
ギルの存在を忘れてしまうなら尚更、この場を逃せばもう一度会うことは難しい。次に顔を合わせた時は、今日話したことも忘れてしまっているかもしれない。そして、彼は二度と同じ話はしないだろう。
だが、ギルの決意は揺るがなかった。
「お前さんが思っている以上に、人は脆い。そして、欲深い生き物じゃ。光属性を授かったお前さんに、最初は歓喜の声が上がるだろう。だが、それもしばらくすればお前さんを妬み、時にはどうしてお前さんがあの時いなかったのかと憎む者も現れるはずじゃ」
「…………」
「人の感情は相手を傷つける強力な武器になる。剣より鋭い刃じゃ。……儂は、そうならないためにお前さんの治癒を断った。──「奇跡」というのは人生に一度きりで良いんじゃよ」
奇跡の力を前にしても矜恃を守り、同時にヘルミーナに助言するところは王族所以だろう。
ギルの言葉ひとつ、ひとつが身に染みわたっていく。だが、奇跡を語るときの表情がやけに強張って見えた。
「ギル様は、そのような奇跡をすでに経験されていらっしゃるのですか?」
ヘルミーナは、神聖魔法の治癒を断ってまで、ギルが体験した奇跡が気になった。
今まで同等に扱われてきた治癒より重要なものを聞ければ、今抱えている悩みも解決しそうな気がしたのだ。
しかし、訊ねてすぐに後悔した。
ギルは湯気の立った紅茶を飲みながら、日常生活を語るように淡々と話した。
「ああ、もちろんだとも。──儂はこんな体になっても無事に生き残った」
──まるで、生き残ったのが間違いだったというように。
口角を持ち上げて無理やり笑ったギルの顔に、言いようのない無力さを感じて胸が締め付けられた。
「王室から離脱し、祝福を失った王子は我が国にとって最も価値のない存在じゃ。王室の一員であったことも忘れられてしまうのだから、爵位や領地も与えられぬ。救いは、記憶が失われる前に渡された持参金のおかげで、婿入り先が困らなかったことぐらいだろう。離脱した王子の中には、この国にいることが耐え切れず他国へ渡った者もいたようじゃ」
「……本当に、何も知りませんでした」
「知らなくて当然じゃ。これは誰も知らぬ事実であり、忘れ去られてしまう真実じゃ」
皆の記憶から抜け落ちてしまう存在というのは、この世に生まれてきたことすら、なかったことにされるのと同じだ。
王子として生まれてきたのに、なぜ彼が、彼らだけがこんな仕打ちを受けなければならないのか。
王室を離脱すれば彼らの身分は曖昧になり、混乱が起きないように象徴になる髪や目はなるべく隠し、人目を避けて過ごしてきたと教えられて息が詰まる。
もし自分だったら、ギルや、他の王子が味わってきた苦痛に耐えることができるだろうか。
愛してくれた両親が、可愛がっていた妹弟が、友人が、仲間が、ある日を境に見知らぬ者を見るような目で見てくるのだ。
それは、少し前まで「お荷物令嬢」と蔑み、冷たい視線を向けてきた他人より、ずっと、ずっと恐ろしく感じた。
ヘルミーナは考えるだけで恐怖し、震える腕を抱き寄せた。
「王室を離脱した後、儂はレイブロン公爵領にあった商会に入り、魔道具作りに没頭した。もちろん魔力がないせいで、やれることは少なかったがな。それでも何か、形あるものを残したかったのかもしれん」
ギルが失ったのは家族だけではない。
過去に築き上げてきた名誉も、絆も、全てを奪われたのだ。
ただ、彼が失くしたものはそれだけではなかった。
「最初は独り身でいるつもりじゃった。……だが、そうは思っていても一か所に留まれば自然と縁はできるものだな。商会の跡取り娘と恋仲になり、最初は魔力がないことで周囲から随分反対されたが、最後は儂を受け入れてくれた」
そう話すギルの表情が嬉しそうに綻びる。
大切な家族から引き離されて孤独に苦しんでいたギルが、新しい居場所を見つけて家庭を築いていたことに安堵した。
彼は王族であった過去を捨て、出会った商人の娘と二度目の人生を歩む決心をしたのだ。
他人の温もりに触れ、一緒に語らい、時間を共にすることで絆が生まれ、お互いが大切な家族になっていく。
秘め事が多いギルにとって悩みは尽きなかっただろう。それでも、愛する人が寄り添ってくれたおかげで、彼の喪失感を埋め、孤独を癒やしてくれたはずだ。
「……幸せじゃった。素性を明かせない儂を、妻の両親は受け入れてくれた。そして、妻との間に二人の娘が産まれた。どちらもお転婆で、目が離せなかったわい。……だが、絵に描いたような幸せというのは、長く続かんもんじゃな」
「──……」
「家族揃ってウォルバート領地にある支店に向かったときじゃ。国境付近の山道で、すでに魔物に襲われておる貴族の馬車があった。儂らも護衛は多すぎるほど連れて行ったが……貴族の護衛が全滅するぐらいじゃ。相手が悪かった……」
語尾を濁すギルに、嫌な予感がした。
それでも話を遮るわけにもいかず、ヘルミーナはスカートを握り締めた。
「逃げようにも貴族の男が助けを求めてきた。だが、深手を負った男は医者の元へ連れていくには手遅れじゃった。男は最後の言葉を残して、その場で息絶えてしもうた。そして、儂らも魔物の群れに気づかれ、あっという間に囲まれてしまったのじゃ」
その後は、惨すぎる現実に聞いていられなかった。
貴族が連れていった護衛ですら歯が立たなかったのに、お互い顔を合わせて間もない傭兵や冒険者の護衛では、訓練された騎士のように連携の取れた行動はできなかったはずだ。
ある者は真っ先に命を奪われ、またある者は任務を放棄して逃げ出し、怯えて動けなくなっていた者もいたという。
そして──。
「儂は黒毛の狼に襲われ、両足を失ったのはその時じゃ。だが、それよりも動けなくなった儂の前で、妻が、娘たちが……泣き叫びながら魔物に喰われておった……っ。助けに行きたくても、魔法が使えん儂は、どうすることもできなかった……」
「──……っ」
「愛する妻と、娘たちのためなら喜んで身代わりになっただろう。なのに、駆けつけた騎士たちに命を救われ、儂が……儂だけが、生き残った……。魔力もない、役立たずの儂が……!」
力のこもった声に、ヘルミーナは全身が震え上がった。
ギルは二度も愛する家族を失ったのだ。あまりに悲惨で残酷な過去に、泣いて同情することもできなかった。
それでも鼻の奥がツンと痛み、視界が滲んだ。
「妻と子供を失った儂は商会を追い出され……その日暮らしをするので精一杯じゃった。人生は一旦転がりだすと、どこまでも落ちていくもんじゃな。生きていたのが不思議だったわい」
「ギル様……」
「そんな儂に救いの手を差し伸べてくれたのが、レイブロン前公爵じゃ。王室にいた頃は、兄のように慕っていた男だ。儂の記憶はないだろうに、住まう場所と仕事を与えてくれたのだ」
おかげで命を繋ぎ止めることができたのだ、と話すギルは憔悴しきっていた。
今にも倒れてしまうんじゃないかと心配になり、ヘルミーナは立ち上がってギルの横に膝をついて腕に触れた。
より近くでギルの顔を見上げれば、偉大な王族の血を感じ取ることができた。
仮にすべてを忘れてしまっても、会うたびにひれ伏したくなるような威圧感と威厳がある。
レイブロン公爵家が、躊躇わず救いの手を差し伸べた理由が分かる。王家の剣として長きに渡り、王国と王室を守り続けてきた家門だからこそ、記憶がなくても仕える相手を違えることはない。
「人生を終わらせることは簡単じゃ。だが、それでは我が妻や娘たちがいない人生を嘆くことも、悲しみに暮れることもできなくなる。彼らがいたことを、毎日思い出してやれるのは儂だけだ」
誰の記憶にも残らず、人々から忘れ去られる苦痛と苦悩を誰よりも知っているからこそ。
ギルの言葉に、ヘルミーナは堪らず涙が零れて声を詰まらせた。そんなヘルミーナに、ギルは優しく手の甲に掌を重ねてくれた。
「お前さんはまだ若い。これから先のほうがずっと長い人生を歩むことになる。辛いことがあるたび立ち止まってしまうこともあるじゃろう。それでも、生きてさえいればいくらでもやり直せる」
「……ですが、私は……皆から期待されるような者では、ありません……」
「なあに、お前さんなら大丈夫じゃ。こうやって他人の話に耳を傾け、儂のために泣いてくれる心優しい娘だ。それに、お前さんには心強い仲間がいるようじゃな。儂がなかなかお前さんに会いに行かんから、レイブロン家の親子が煩くて仕方なかったわい」
ギルは呆れたように言いながら笑って見せた。
先ほどまで辛い過去を話していたようには思えない様子に、今までもこうして吞み込んできたんだと悟った。
そして、これからも。
ここで簡単に治癒してしまえば、ギルはさらなる悲痛に苛まれることになる。
「生きていることが何より重要じゃ。それから自分を想ってくれる人が一人でもいれば、それだけで十分なんじゃよ」
「……はい」
ヘルミーナはギルの気持ちを尊重することにした。
これまでも多くのものを失ってきたギルの「生きている証明」まで奪うわけにはいかない。
重ねられた手の温もりに頬をほころばせ、ヘルミーナは何度も頷いた。
地面に跪いていたヘルミーナが立ち上がると、見計らったようにフィンが現れた。
二人の語らいに終わりがやって来たのだ。
ヘルミーナはまたギルと会う約束をした。今度は本来の姿で。
「もしかしたら、お前さんなら……いや、期待はするまい」
そう言って、ギルは片手を差し出してきた。ヘルミーナは笑顔で彼の握手に応じ、フィンと共に部屋を出ていく姿を見送った。
光属性の存在や神聖魔法による治癒を奇跡だと思い込んでしまっている内に、本当に大切なことを見失っていた。
本当の奇跡は他にある。
──生きている。
それ以外に、悩むことがあるだろうか。
このような世界で、命が続いているだけでも奇跡なのだ。他のことは、その時になってから考えれば良い。いつまで続くか分からない命だからこそ、立ち止まっている暇はない。
「皆に会って、きちんと話そう。それからのことは、その時になってから決めよう」
ヘルミーナは、ギルを送って戻ってきたフィンに、ルドルフたちの面会を受け入れる返事をした。
フィンは面食らった表情をしつつも、丁寧に頭を下げると足早に宮殿を出て行った。それが他の者たちにとってどれだけ吉報だったか、ヘルミーナには知る由もなかった。
「沈黙の宮殿が、ようやく主人を見つけたか」
アイリネス宮殿から転移装置を使って、レイブロン公爵邸に続く隠し通路に移動したギルは、先ほどまでの出来事を思い返していた。
王女の誕生を願って建てられた宮殿にいたのは、「光の神の代行者」や「聖女」の名に相応しい容姿をした少女だった。
話してみれば中身はごく普通の貴族令嬢なのに、不思議と神へ懺悔をしている気分になった。おかげで、過去の惨劇まで話してしまい、彼女には悪いことをしてしまった。
これまで誰にも言わずにきたのに、なぜあの娘だったのか。
しかし、日々罪悪感に押しつぶされそうになっていた心が、随分と軽くなっていた。こんなことは初めてだ。
転移装置から離れると、薄暗くて狭い通路にうっすらと人影が見えた。
「──迎えに上がりました、ギルバート殿下」
大柄の体と聞き覚えのある太い声に、ギルは眉根を寄せる。
通路を抜けたところで部下と合流する予定だったが、四大公爵家の一つを束ねる長が、自ら迎えにやってくるなど迷惑でしかない。
「ふん、何が迎えじゃ。あの娘のことが気がかりで、居ても立ってもいられなくなったんじゃろーが。子も子なら、親も親だな」
「もしや我が息子も……?」
レバーを操作すれば動くようになっている車椅子は、人の手を借りずとも動くのだが、レイブロン公爵はギルの背後に回って車椅子を押し始めた。
「火属性一族は気が短くていかん。やれ魔道具を作れ、やれ娘のところに行けと、毎日来ては迷惑じゃったわい」
「それは申し訳なかった。息子カイザーの非礼は私が謝りましょう」
謝ると言いつつ、どこか楽しげに聞こえる声にギルは嘆息した。
息子のおかげで気になっていたことが分かるのだから、落ち着けずにいるのも頷ける。気が短いのは、父親も同じのようだ。
「それで、いかがでしたか?」
「光属性を授かるにはちと優しすぎる娘じゃったが、他人を思いやる良い娘じゃったよ」
率直な感想を述べると、レイブロン公爵は「そうでしょうとも!」と、なぜか自分の娘のように自慢してきた。
まだ気が早すぎるのではないかと心配になったが、火属性の特性だ。
だが、もしヘルミーナの存在が明るみになれば、彼女を囲もうとする権力者はこぞって現れるだろう。それは本人の意思に関係なく、激しい強奪戦になり得る。
「……アルバンよ、他の一族よりも教会に目を光らせておくことじゃ。光属性を授かった娘を、教会が放っておくはずがない。王族が王室を離脱するときも教会が関わっておる。奴らの動向から目を離さんよう、お前の主人に──いや、娘の保護は王太子の方じゃったな。どうやら切れ者だった我が兄の血を濃く受け継いだようだ。人をからかうのも好きじゃろうて」
「弟想いなのも似ておりますな。それから、王太子殿下の他人を気遣う優しさは、ギルバート殿下に似たのでしょう」
「儂は、公爵家の職人に過ぎん」
「……分かっておりますとも」
レイブロン公爵が今日知り得たギルの情報は、明日になれば忘れてしまうだろう。彼の中に残されるのは、職人であるギルという存在だけだ。
だが、それで良い。
光属性を宿した娘に出会い、彼女は怪我ではなく、無惨に傷つけられた心を癒やしてくれた。
これもまた奇跡だろう。
「光の神エルネスの導きか……。あの娘の歩む未来が明るいことを祈るばかりじゃな」
お荷物令嬢2巻の電子書籍予約開始、帯付き書影と口絵が公開されました。
今回の口絵にはランスとリックが登場し、ミーナちゃんと仲良しトリオで並べていただきました!
外伝は「臆病者と聖女の守り石」というタイトルで、
臆病者の出来損ないと呼ばれたマティアスの幼少期を覗いていただけたらと思います。
7/10発売までもう少し、2巻発売記念SSなども上げていきたいと思います。
引き続き宜しくお願いします。




