86
這い出るようにしてベッドから下りてきたヘルミーナに、メイドは悲鳴を上げて飛びのいた。
それまで必要最低限の行動範囲内で生活していたせいか、体が鉛のように重い。服を着替えるにも気だるくて腕が持ち上がらなかった。
「ヘルミーナ様、軽食をご用意致しました」
ようやく支度を終えて居間に移動し、窓際の椅子に腰かける。テーブルには胃に優しい食事が用意されていた。
アイリネス宮殿のメイド長として長年勤めてきたメイドは、紅茶を淹れると、静かに部屋を出て行った。
気遣ってくれたのだろう。寝室に引きこもってから、身の回りの世話を彼女一人がやってくれていた。
部屋にぽつりと残されたヘルミーナは、メイドの後ろ姿に、専属侍女として傍にいてくれたメアリのことを思い出していた。
詳しい説明もしないまま皆を避けてしまっていることに、後ろめたさが湧いてくる。きちんと言葉にして伝えなければいけないのに、いくつもの感情が入り混じって上手く口にできなかった。
「なんて話せばいいの……?」
考えれば考えるほど自分都合の言い訳にしか思えず、彼らから背を向けられる光景ばかり浮かんで恐ろしかった。
けれど、時間は解決してくれない。そればかりか、一日一日が過ぎていくたびに罪悪感だけが積み重なっていく。
ヘルミーナは淹れたての紅茶や軽食を前にうな垂れた。
視界入ってくる黄金色の髪が恨めしい。体内を巡る大量の魔力も。
覚醒しなければ友を失っていた。──だが、覚醒するにはあの状況が必要だった。
「……もうっ」
頭の中でごちゃごちゃになって、ヘルミーナは胸元にかかる金糸の髪を鷲掴みして引っ張った。
「……あの、ヘルミーナ様?」
「きゃっ!」
突然、横から話しかけられて驚いた。反射的に振り向くと、困惑したフィンが立っていた。
風属性は音もなく現れるから厄介だ。
「何度か扉を叩いて声を掛けたのですが……」
「き、気づきませんでした!」
しばらく寝室に引きこもり、久々に外へ出てきたかと思えば奇行に走る姿を目撃され、精神的ダメージが大きい。水になって溶けてしまいたくても、背中を丸めるぐらいしかできなかった。
言い様のない沈黙が居たたまれない。
しかし、そこは王太子の侍従を務めているフィンだ。彼はすぐに咳払いして、何事もなかったように口を開いた。
「体調はいかがでしょうか?」
「……はい、大丈夫です」
体調を尋ねられて、ヘルミーナの肩が僅かに震える。
毎日決まった時間に欠かすことなくやって来たフィンは、体調を尋ねてくるのと同時に、面会を希望している者たちと会うかどうか訊いてきた。
断るたびに自己嫌悪に陥る一方、フィンの立場が悪くなっていないか不安になった。
「フィンさんにはご迷惑ばかりかけて──」
「ヘルミーナ様、まずはご自身を大切になさってください」
俯いたまま謝罪の言葉を口にすると、それを遮るようにしてフィンが言った。
「気分が優れないようでしたら無理する必要はありません。もちろん、私への謝罪も不要です」
「……ありがとう、ございます」
どこか優しさを含んだ声に、ヘルミーナは顔を持ち上げた。
今の状態になってからもフィンは一貫して淡々とした態度を崩さなかった。おかげで息苦しさを感じることなく接することができた。やはり、あのルドルフに仕えているだけあると感心してしまう。
しかし、この日のフィンはいつもと違った。
「……むしろ、謝らなければいけないのは私のほうです」
「どうかされたのですか?」
先ほどまでとは違い、やや焦りを滲ませたフィンは背筋を伸ばして頭を下げてきた。
突然の謝罪に、ヘルミーナは慌てて「頭を上げてくださいっ」と騒げば、フィンはゆっくりと頭を起こしてから説明してくれた。
「実は、レイブロン公爵家の紹介でいらした魔道具師が王宮に来ており、ルドルフ殿下も断り切れず、こちらへ案内することが決まりました。ヘルミーナ様には報告が遅れたことを深くお詫び致します」
「い、いいえ! 魔道具師の件は、私からレイブロン公爵様に頼んでいましたから。ただ、殿下でも断ることが難しい方とは……?」
そんな方が国王夫妻の他にもいるのかと首をかしげたが、フィンの口から語られることはなかった。
つまり、会えば分かるという意味だ。ただし、会うかどうかはヘルミーナ次第だと言われたが、王族や公爵家も気遣う相手に、断れるほど恐れ知らずではない。
ヘルミーナが面会を承諾すると、心の底から安堵するフィンの姿が印象深かった。
短くてすみません。
原稿作業が終わりましたら更新ペースも上げていきたいです。




