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「そうか、今日も彼女は寝室に閉じこもってしまっているのか」
王太子の執務室に戻ってきたフィンは、彼が戻ってくるのを待っていたルドルフと、彼の婚約者であるアネッサにヘルミーナの近況を報告した。
ソファに座る彼らの前にはお茶や軽食が用意されていたが、一切手がつけられていない。いつもと違って余裕のない様子に、フィンの顔にも影が差す。
「噂は期待以上に広まっている。重傷を負っていた騎士たちも無傷で戻ってきた。喜ばしいことばかりだというのに……」
「あんなことがあったばかりよ。今は落ち着くまでそっとしておきましょう」
気が短いと言われているアネッサも、今回ばかりはヘルミーナを気遣って寝室に押しかけることなく耐えている。
カレントへ向かった彼らに何があったのか、報告はすでに受けていた。ただ、肝心のヘルミーナとはまともに話せていないため、彼女がなぜ今の状況に陥ったのか知ることができずにいる。
ルドルフは顎を撫でて嘆息した。
「ところで、カイザーも相変わらずかな?」
「ええ、驚くほど──……静かですわ」
アネッサが間を空けて答えると、ルドルフは眉根を寄せて唸った。
今はどこよりも活気づいているはずの騎士団は、恐ろしいほど静かだった。誰かの顔色を窺うような雰囲気に、その原因のひとつが親友にあることも分かっている。
いくつかの問題を抱えたルドルフが天井を仰ぐと、フィンが新しいお茶を淹れて持ってきた。
「様子を見に行かれないのですか?」
「私が? ……本気で訊いているのかい? 今のカイザーを慰めに行ったら全身の骨が粉々に砕かれてしまうよ」
想像しただけでも恐ろしい、とルドルフはぶるっと震えて、代わりのカップに注がれたお茶に手を伸ばした。鼻孔をくすぐる紅茶の香りに、沈んでいた気分が和らぐ。
「今のカイザーに必要なのは肩を叩いてくれる友でもなければ、背中を押してくれる仲間でもない」
アネッサもルドルフに倣って淹れたてのお茶を受け取り、肩の力を抜いた。
停滞していた問題が解決の兆しを見せたかと思えば、次の瞬間には別の問題が浮上してくるのは良くあることだ。これからのことを考えれば尚更、お茶を楽しむ時間もなくなるだろう。
「己の不甲斐なさや弱さを痛感させてくれる存在だよ」
「それでしたら問題なさそうですね」
二人の会話に聞き耳を立てていたアネッサは──しかし、聞こえない振りをした。
彼らが話しているのは自分の兄に他ならないが、今の兄と衝突したところで良いことはない。これ以上、屋敷を半壊させるわけにはいかないからだ。
「私がいくら今回の件を不問にしたところで、彼らは名誉を重んじる騎士だ。騎士の問題は騎士団内で解決してもらうことにしよう。それより問題はヘルミーナ嬢だが……」
騎士の治癒とカレント行きを決めたのはヘルミーナ自身だが、今回のことはルドルフも責任を感じていた。
彼女の性格は十分理解していたつもりだったのに、命を危険に晒してまで仲間を救った行動に、恐れていたことが起きてしまったと額を押さえた。
唯一の光属性を失えば国にとって大きな損害だ。だが、それだけではない。
すでにヘルミーナと関わりのある者にとって、彼女の存在は奇跡そのものだ。そんな希望である彼女を失えば、耐えられない喪失感と悲しみに暮れていただろう。己も、また。
強敵が現れた今、よりヘルミーナの存在は重要になってくる。だからこそ、どんな形であれ彼女を全力で守られなければいけなかった。それが本人の意思に反することであっても。
幸いにも、今回は全員が無事だった。けれど、次も続くかどうか分からない世界だからこそ、今一度気を引き締める必要がある。
ルドルフは、カップの中で揺れる紅茶を見下ろして息をついた。
その時、フィンが思い出したように口を開いた。
「殿下、ひとつ宜しいでしょうか? ヘルミーナ様との面会を希望されている方で、レイブロン公爵様より紹介状をお預かりしております」
「レイブロン公爵から? アネッサ、何か聞いているかい?」
「いいえ。ただお父様の紹介と言ったら魔道具師ではないかしら? 以前、ヘルミーナが魔道具師の紹介をお願いしていたと思うわ」
フィンは懐から取り出した封筒をルドルフに手渡した。
ルドルフは早速、手紙を開いて中身を確認した。と、目を通してすぐにルドルフの表情が強張る。
明らかに様子の変わったルドルフに、アネッサとフィンは心配そうな表情を浮かべた。
「……これは、私の立場でも断ることは難しい相手だね」
手紙を食い入るように見つめたルドルフは、珍しく額に冷や汗を滲ませた。




