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ゆるゆると流れる川に小石が投げ込まれる。それは小さな波紋を作って川底へと沈んでいった。
しかし、次の瞬間いくつもの石が投げ込まれ、穏やかだった川は突如荒れだし、村や町に押し寄せてくる。
そして、大きなうねりを打った川は、大陸を支配する大国をも呑み込もうとしていた。
王都や主要都市に「とある奇跡の物語」の話が広まるのに、時間はかからなかった。
その奇跡を目の当たりにしたのが他でもない、王国騎士団だったからだ。危険を顧みず魔物から国を守ってくれる彼らは、時として領主より偉大で、最も信頼できる存在だ。
そんな彼らが、とある村で手に入れた治療薬によって奇跡の復活を果たした。
怪我を負っていた騎士の中には剣を握るどころか、自力で歩くこともできない者もいた。
けれど、彼らは絶望的な状態から怪我を完治させ、魔物の脅威からまたひとつの村を救って見せたのだ。
──噂にならないほうが可笑しい。
証人が数多くいたことから伝聞にも拍車がかかり、話題の中心となった騎士たちを一目見ようと、王城まで続く沿道には大勢の民が詰めかけた。
国王たちを出迎えた時よりも盛大な歓迎に、その光景もまた民たちの間で広く語られることになる。
同時に、奇跡の物語と共にとある存在の噂が流れてくるようになった。
それは少しずつ……だが、着実に。
王国の民は妙な期待感に胸を高鳴らせていた。
王女誕生を願って建てられたアイリネス宮殿。
そこへ毎日のように足を運んでいるフィンは、宮殿の別名を思い出して深い溜め息をついた。
国中が奇跡の物語に浮き立ち、無傷の騎士たちに歓呼の声が止まない中、本来ならどこよりも喜びの中心にいるはずの王宮は今、重苦しい空気に包まれていた。
王太子ルドルフの命に従って動いていた馬車が、役目を終えて戻ってきたのが七日前のこと。
その時から雰囲気は一変していた。
「間もなく別の討伐遠征に出ていたマティアス様が帰還される予定です」
「……そう、ですか」
カーテンが閉め切られた寝室はじめじめして薄暗く、中央に置かれたベッドは白いシーツに覆われて人影しか見えない。
それでも辛うじて返ってきた声に胸を撫で下ろすべきか。だが、フィンに託された仕事は報告だけではなかった。
「また本日も、ルドルフ殿下やレイブロン公爵様をはじめ、多くの方がヘルミーナ様との面会を希望されておりますが、いかがしましょう……?」
ヘルミーナの隣に専属侍女の姿はない。
現在はベッドから出てこない彼女の身の回りの世話をするメイドが一人いるだけだ。
「あの、ヘルミーナ様……?」
「……申し訳ありませんが、気分が優れないためお断りをお願いします」
予想はしていたが、それでもフィンは肩を落とした。だが、誰とも会いたくないと拒む彼女に無理強いはできない。レースの先にある姿を暴くことも。
帰ってきた直後はカイザーに抱えられ、ぐったりとして動かないヘルミーナに皆が慌てた。
医者のロベルトが診察すると、突然の覚醒と魔力の使い過ぎが原因だった。それから彼女は丸三日間眠り続けた。
その時から外見の変化に気づいてはいたが、ヘルミーナが深い眠りから目覚めた時、改めて見せられた容姿に誰もが驚いた。
華奢な体に流れ落ちる金糸の髪。
王族とはまた違った金色の瞳。
王国の民が三百年もの間待ち望んだ奇跡の存在。
光の神エルネスの代行者と呼ぶに相応しいその姿に、目撃した全員が息を呑んだ。
しかし、ヘルミーナは自身が第二次覚醒をしたことを知った途端、突然心を閉ざしてしまった。その表情はこれまで以上に暗く沈んでいた。
それから彼女は、専属侍女であるメアリさえ遠ざけ、ロベルトとフィンとメイド以外、誰とも会おうとしなかった。
「畏まりました。また明日お伺い致します」
フィンは頭を下げ、ヘルミーナのいる寝室を出た。
王城へ戻れば、彼女の現状を知りたがる者たちに詰め寄られるだろう。考えただけで頭が痛くなってくる。
ロベルトの話では精神的なものだと言っていたが、王宮にやって来てから徐々に変わっていく彼女を見守ってきただけに複雑だ。
「どうしたら良いものか……」
だからと言って原因が分からない以上、下手に踏み込むこともできない。
フィンは静まり返った廊下に嘆息し、沈黙の宮殿を後にした。
一人になった部屋で、ヘルミーナは首を垂れた。
頭を下げると自然と金糸の髪が肩を滑り落ちてくる。
自身の変化に一番驚いたのは、ヘルミーナ本人だった。鏡の前に映る自分の姿に言葉を失った。
第二次覚醒が起きたことは理解できた。ただ、周囲からお祝いの言葉や、期待の眼差しを向けられても素直に喜べなかった。
胸を占めたのは耐え難い罪悪感だった。
あれほど望んでいた覚醒だったのに──でも、こんな形で力を得たかったわけじゃない。
「私の覚醒には……誰かの犠牲が必要だったんだわ……」
第二次覚醒の条件は人それぞれで決まりはない。それでも、危機的状況に陥ったときに覚醒する場合が多かった。
ヘルミーナはこれまで、覚醒を引き起こすために限界まで魔力を放出させたことがある。けれど、覚醒は起こらなかった。
──自分ひとりでは駄目だったからだ。
大切な人を失うかもしれないという恐怖や絶望が伴わなければ、眠っている魔力を引き出すことができなかったのだ……。
あの時、大切な人を、友を、失いたくないと願った。覚醒したのはその時だ。光属性が発現したのも、過去に一度大切な人を失いかけたからだろう。
皆が希望や奇跡のように思ってくれた魔法は、誰かの犠牲の上に成り立っている。
「……っ、ふ、く……っ」
ヘルミーナは初めて開花させた魔法が恐ろしくなった。けれど、これを誰に相談できるというのか。
ようやく自分の居場所を見つけられたと思ったのに。
散々向けられてきた軽蔑の目や、冷たく突き刺さる視線を思い出して、ヘルミーナは自身の肩を抱き寄せて唇を震わせた。
連載再開しました!
出会いや別れやざまぁなど、色々ありの5章となります。引き続き宜しくお願いします。
本作書籍の続刊が決まりました!皆さまのおかげです、本当にありがとうございます!
詳細は公式サイト、Twitter、活動報告などをご確認ください。
2巻は7/10発売予定です。今回も番外編書下ろしと特典SSがあります。




