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王都から中央のレイブロン領を抜けて、ウォルバート領とセンブルク領の境い目。各領地の入口となる街は多くの人が行き交う場所だけにしっかり整備され、賑やかで治安も良い。
それでも王国騎士団が現れれば、その行進を一目見ようと沿道には大勢の民が詰めかけた。中でも騎士団を率いているマティアスには、一際大きな歓声が上がった。
第一騎士団の団長、西の国境を守りし風の民、ラゴル侯爵家の次期当主──といった肩書きはもちろんのこと、騎士としての名声も広く轟いているからだ。一度目にしたら忘れられない眉目秀麗な外見も、本人の知らぬところで広まっていた。
しかし、共についてきた騎士たちの表情は一様に固かった。
彼以外の第一騎士団は王族警護のため王城に残った。つまり、普段はマティアスの指揮下にいない騎士団がついてきたのだ。その中には今回が初めての遠征となる新人の騎士たちもいた。
彼らの目的は民の関心を引き寄せることにあった。とはいえ、騎士としての任務も怠ってはいない。
ここへ到着する前に魔物と一戦交えている。あれを戦いと呼ぶならそうなのだろう。だが、実際はマティアスが魔物の気配を察知し、たった一人で乗り込んで片付けてしまった。
他の騎士たちが駆けつけた時には魔物はすでに原型を留めておらず、黒い煙を上げて消滅していった。魔物が人間を襲っても、ここまで残虐な光景にはならないだろう。
返り血を浴びても、生まれ持った美しさを失わない姿にゾッとした。一歩でも近づいたらこちらの首まで撥ねられそうで恐ろしくなる。
第一騎士団に憧れ、期待に胸を膨らませていた新人騎士は一瞬にして現実を思い知らされることになった。それと同時に、暫く肉料理は口に出来ないだろう。
遠征へ見送られる際、第一騎士団の騎士から一人ひとり声を掛けてきたのはそういうことかと今になって思う。また第一騎士団が羨望されるのと一緒に同情の声が集まるのも理解した。
だが、マティアスに苦言を言えるのは総長のレイブロン公爵ぐらいだ。現在ここにはマティアスとの間を取り持ってくれる騎士はいない。誰でもいいから第一騎士団の騎士を連れて来るんだったと悲壮感さえ漂う。
同じ団長という立場であっても、第二騎士団のダニエルほどマティアスと対等に言葉を交わせる相手はいなかった。ダニエルは「対等なものか」と苦笑していたが、それでもあのマティアスと話せるだけ拍手ものだ。
「西の森から逃れた魔物がここまで来ているとは。城壁の守備もさらに強化する必要があるな」
「噂では魔物の力が強まっていると……」
センブルク領地に入って間もなく。魔物の被害を受けた村に到着すると、騎士たちは休息も取らずに討伐へ出向いた。魔物は下級クラスだったが、数が多かった。
一緒についてきた第六騎士団の団長が、恐る恐るマティアスに討伐完了の報告をする。魔物は一掃したというのに、周囲にはピリッとした空気が張り詰めていた。そのおかげで無駄口を叩く者は誰一人としていない。
「それでも我々の任務に変わりはない。魔物の殲滅だけを考えろ」
感情を顔に出す男ではなかったが、エメラルドグリーンの瞳には怒りに似た感情が宿っていた。
──客寄せの道具として扱われたからではない。
マティアスの怒りがどこから来ているのか、皆知っていた。知っていて、何も言えなかった。
カレント行きから漏れたことを、彼もまた悔しがっているなんて。それを魔物の討伐で鬱憤を晴らしているなんて。意外にも子供じみたところがあるんだと、からかう者は誰もいない。ただ、八つ当たりされている魔物には少しだけ同情する。
そして、マティアスが味方であることに深く感謝した。
これまで西の城壁を守護するラゴルに手を出す愚か者はいなかった。王権を揺るがすほどの軍事力を所有し、それ故に反逆の噂も絶えなかったが、王室が彼らに剣を向けることはなかった。
絶対に敵対してはいけない相手だということを、多くの者たちが知っていたからだ。
彼らの強さを間近で見てきた騎士たちはとくに、この先もラゴルの者たちが魔物の住処である『黒煙の森』にだけ目が向いていることを祈るばかりだった。
そうとは知らず、マティアスは緑色の髪を靡かせ、血のついた剣を払って鞘に納めた。
王太子ルドルフの人選に不満はない。適材適所だと納得してる。だが、それと自分の気持ちは別だ。
マティアスもまたヘルミーナの護衛として共について行きたかった。近くにいなければ守れるものも守れないというのに。
彼女が手の届く範囲にいないだけで不安になってくる。覚えのない感情に振り回され、らしくないという自覚もある。
それでも願わずにはいられないのだ。
「──光の神エルネスの加護が、あの方にも届いていますように」
彼女が無事であるように。
マティアスは頬を撫ぜる風に言の葉を乗せ、遠く離れた地に思いを馳せた。
★ ★
初めて社交界に足を踏み入れた時、世間から見放されたような気がした。
味方は婚約者だけで、全員から背を向けられたように感じた。けれど、実際は限られた空間の中で、目に映る範囲でしか捉えていなかった。
それまで知らなかった場所に飛び込んでみると景色ががらりと変わった。自分を取り巻く環境や、人間関係、思考、それら全て。視野が広がって、これまで見えていなかった世界が迎え入れてくれた。
でも、それは光属性という魔力を覚醒させたからだ。もしこの力が目覚めなかったら、今も変わらず狭い空間でもがき苦しんでいただろう。婚約者のお荷物から抜け出せずにいたはずだ。
それじゃ、この力が及ばなくなったら……?
唯一の救いである魔法が役に立たなくなった時、自分を受け入れてくれた場所は、今までと変わらずにいてくれるだろうか──。
「お兄様……っ!」
森から戻ってきたランスが地面に倒れ込むのが見えた。
逃げて行く男を追いかけていったはずなのに、一体何があったのか。先程の魔物と関係があるのだろうか。訊ねたいことは色々あったのに、ランスに背負われたリックの姿を見て言葉を失った。
駆け寄ったカイザーがランスの背からリックを抱え起こした時、団服にべったりとついた血にメアリは悲鳴を上げた。
リックの腹部から流れた血によって団服が赤黒く染まっていた。メアリは変わり果てた兄の姿に信じられない様子で、真っ青になったリックの頬に触れた。
「どう、して……お兄様……っ!? ──お兄様っ!」
いくら呼んでも、叫んでも、リックから返事はなかった。少し前まで、カイザーと共に先頭を歩いてくれていたのに。
カイザーは意識のない部下の肩を強く握り締め、名前を呼んだ。
「俺のせいなんだ……。リックが、俺を庇って……っ」
自身も傷だらけでボロボロになったランスが、両膝をついて喘ぐように言ってきた。その顔には不甲斐ない自分への悔しさが滲み出ている。
「………………リック?」
動けずにいたヘルミーナだったが、無意識の内に彼らの元へ向かっていた。両手をついて地面を這い、途中から力の入らない足で立ち上がり、何度も転びそうになりながら近づいた。
そして、地面に仰向けで寝かせられたリックを見て愕然とした。
「……ヘルミーナ様っ」
泣きじゃくるメアリの隣に膝をつき、ヘルミーナは震える手をリックに伸ばした。
──早く、助けなければ。
彼の命が尽きる前に魔法をかければ、こんな怪我などすぐに治癒出来る。
なのに、ヘルミーナは魔力を込めることが出来なかった。
その時、ランスがヘルミーナに向かって頭を下げた。
「リックが、自分の命が尽きてから連れて行ってくれと……! ミーナちゃんの手を煩わせたくないからって、言ってきたのに……! でも俺は……っ、騎士の俺がこんなこと頼むのは、間違っていることは分かってる……! けど、もしまだ可能なら、リックを……リックを治してくれ……頼む……っ!」
額を地面に擦り付けながら頼んでくるランスに、ヘルミーナは頭の中が真っ白になった。
リックは知っていたのだろう。ヘルミーナが村人を助けることも、それによって魔力が尽きることも。
テイト伯爵家で護衛をしていた時も、随分周囲に気を配ってくれた。兄弟の多い長男だからだろうか。苦労を背負い込むような性格だった。でも、信念を曲げることなく真っ直ぐに生きる騎士だった。ランスを庇って怪我をしたのも彼らしい。
ヘルミーナは唇を噛んで、込み上がる感情を堪えた。ここにいる誰もがリックの無事を願っていた。
自分だってリックを、友を失いたくはない。
……分かっている。分かっているのだ。
けれど、いくら両手を翳しても魔力が放出しなかった。
「……っ、く……うぅ」
次第に、目の前が霞んでリックの姿が捉えられなくなってくる。
──どうして。
なぜこんなときに限って魔力が枯渇してしまったのか。
助けなければいけないのに。
魔力を込めると心臓が圧迫されて呼吸が出来なくなった。全身に悪寒が走って額に汗が滲む。
「……もういい、やめてくれ、魔力を完全に失えば、ミーナ嬢の命まで尽きてしまう……っ」
命を削ってまで魔力を込めようとするヘルミーナの手を、カイザーが掴んできた。握られた手が指先まで冷たくなっていた。
ヘルミーナはわなわな震えながら、視線を上げた。すると、悔しさを耐えるようなカイザーと、絶望の色を浮かべるメアリとランスの顔が目に映った。
「でも、それではリックが……っ」
……死んでしまうではないか。
言葉には出来なかった。けれど、ヘルミーナの魔力が尽きてしまった以上、他にリックを治癒する方法がなかった。予備の魔法水を持った第二騎士団を待っていては間に合わない。
カイザーがその場から動かずにいるのは、すでに分かっているのだ。ランスも、メアリも。
「……い、や……です、こんな……っ。私が、もっと……」
ただ、ヘルミーナだけは受け止めきれず首を振った。
自分にもっと力があれば。
光属性の魔力が覚醒したところで、必要なときに使えなければ何の意味もない。目の前で友が死にかけているのに、ただ見守ることしか出来ないなんて。
けれど、魔法を繰り出そうとしても、カイザーがそれを許さなかった。
騎士たちはこんな経験を何度もしてきたのだろう。
死にかけている仲間に何もしてやれず、身が引き裂かれそうな思いだ。嗚咽を漏らすたびに息が詰まり、膨れ上がっていく悲しみに、もうやめてと泣き叫びたくなる。
「あ、……ぁ、っ、リック、リック……!」
こんな時、名前を呼ぶことしか出来ない自分が歯痒い。
泣いて、見送ることしか出来ない。
そして最後は、光の神に祈るしかないのだ。
彼を連れて行かないでほしい──、と。
いくつもの涙が頬を伝い落ちた時──柔らかな風が吹き抜けた。
涙で濡れた頬を優しく撫でられた気がして、ヘルミーナは顔を上げた。刹那、カイザーの手が離れ、ヘルミーナは自身の顔に触れた。
それから意図せず胸元に手を下ろした時、冷たい物が素肌に触れた。
「……ラゴルの、守り石」
ヘルミーナは咄嗟に外套を脱ぎ捨て、首に掛けていたペンダントを外した。
それは旅立つ直前に、マティアスから無事を願って渡された物だ。風の民に代々受け継がれてきたお守りで、聖女の魔力が込められた魔法石がついている。
効果はすでに失われていると言われたが、ヘルミーナはそれを左の掌に巻き付けてリックに翳した。魔力が無くなっているはずなのに、魔法石はまだ白いままだ。
──どうか、聖女様……!
ヘルミーナは心の中で強く願った。
ほんの少しでいい。命を繋ぎ止めておけるなら。
「リックを……っ、私の友を助ける力をお貸し下さい!」
体内に魔力を巡らせると胸が締め付けられた。頭が割れるように痛くなって、体中が悲鳴を上げていた。
けれど、ヘルミーナは魔法石を通して神聖魔法を放った。
その時、体内の奥底に眠っていたものが弾け飛ぶように一気に溢れ出した。
瞬間、バチバチと火花を散らした魔法石が眩い光を放ち、白い蔦が波打つようにヘルミーナの体に絡みついた。
「──……っ!」
これまで感じたことのない魔力が全身を巡る。体を起こしていられないほどの力に、しかし、ヘルミーナはぐっと堪えて魔法を放ち続けた。
すると、水色だった髪と瞳は輝く黄金色に変わり、ヘルミーナに変化をもたらした。第二次覚醒が起きたことは明らかだ。
「──リック! 貴方を失ったら誰が私を咎め、叱ってくれるというのですか!?」
だが、ヘルミーナは自身の変化に気づかなかった。彼女の目には救うべき友の姿しか見えていなかったのだ。
更に魔力を込めると、力に耐え切れなくなった魔法石が音を立てて割れた。
石が粉々に砕けた時、リックの瞼と唇が微かに動いた。
「…………くれぐれも、目立った行動はしないようにと……言ったではありませんか」
やや呆れたような。それでいて優しい声が聞こえた時、誰もが声を詰まらせた。
青褪めていた顔色に血の気が戻り、ゆっくりと目を開いたリックは申し訳なさそうな笑みを浮かべた。
──ああ、いつものリックだ。
ヘルミーナは唇を震わせながら「貴方の……っ、リックのせいではありませんかっ!」と、声を張り上げていた。
「お兄様っ!」
息を吹き返したリックに、メアリは全力で抱きついていた。リックは泣きじゃくるメアリの頭を引き寄せ、何かを実感するように瞼を強く閉じた。カイザーは驚きを隠そうともせず、ランスはうずくまって嗚咽を漏らしていた。
……生きていてくれた。
大切な仲間を、友を、失わずに済んだ。
ヘルミーナは喜びで心が打ち震えた。それから抱き合う兄妹に、自分も両手を広げて抱き締めていた。両腕から伝わってくる確かな温もりに思わず破顔する。
その直後、視界が揺らいだ。おかしいな、と思った時には目の前が暗転していた。
「ミーナ嬢っ!」
遠のいていく意識の中、カイザーたちの声が聞こえたような気がする。けれど、ヘルミーナの記憶はそこで途切れた。
穏やかな風が金色の髪を揺らしても、ヘルミーナがすぐに目を覚ますことはなかった。
間もなくして第二騎士団が小屋に駆けつけた。
彼らが全てを把握するのは難しいだろう。だが、事実は包み隠さず共有され、それは当然王室にも伝えられた。
気を失ったヘルミーナはカイザーに抱えられ、彼らを乗せた馬車は人知れず、静かに王城へと戻って行った。
一方、彼らが去って行ったケーズ村では、後世まで語り継がれる奇跡の物語が生まれ、光属性の噂が国中に広がっていくことになった──。
【4.黒い瘴気と奇跡の娘】……完。
いつもありがとうございます。こちらで4章完結となります。
お付き合いくださりありがとうございました。
5章再開まで暫くお休みさせていただきます。
書籍1巻の特典SSとカバーイラストもコンビニでプリントできるようになりました。
詳細は活動報告などをご確認ください。
それでは引き続きお荷物令嬢を宜しくお願いします。




