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女は深い森の中を走っていた。
鹿の皮に紐を通しただけの靴は泥だらけになっていた。剥き出しになった手足は傷だらけで血が滲んでいる。それでも女は走るのを止めなかった。痛い、苦しいといった感覚はとうに麻痺していた。
──逃げなければ。
女を突き動かしたのは、得体の知れない恐怖だった。人間の皮を被った悪魔に捕らえられ、連れて行かれた先で目撃した光景に戦慄した。
アレは一体なんだったのか。
女は本能的にその場から逃げ出していた。
五感が、生存本能が、ありとあらゆるものから守ろうとした。涙が出ようが、鼻水が垂れようが、涎が流れようが、小水を漏らそうが、痛みと同じでそれらの不快感も感じなかった。ただ、生き残るために。
誰か。誰か。誰か──。
誰でもいいから、助けて。
あの黒い瘴気を纏った化け物から。
女は最後の力を振り絞り、僅かな希望を信じて一気に山を駆け下りた。
ウォルバート領地とラスカーナ領地に挟まれたケーズニ谷。
二つの領地をまたいだケーズニ山脈の中央に出来た窪地は、滅多に人が寄り付かないため魔物の住処に適していた。
しかし、魔物が増えれば人里を襲ってくる危険性もあるため、年に二回ほど討伐の要請が上がってくる。
それを管理しているのが、それぞれの谷沿いにある村だ。
「今回討伐の要請はなかったんだが、偵察に行かせた者たちによると魔物の目撃情報があった」
カレントで乗り換えた二頭引きの幌馬車の中。足元には木箱や布袋などが積まれ、舗装された道を抜けて山道に入っていくと積荷が馬車ごと揺れた。
町から町へ、拠点を持たない旅商人を装っているが、貴族特有の品の良さだけは隠しきれない。
「騎士団は本来、要請がなければ各領地での討伐は行えない。その要請も緊急性や危険度を調査した上で通されることになっている。一方で、ケーズニ谷のように討伐の予定がすでに組まれているものもあるんだ」
荷台の三人掛けシートに、ヘルミーナ、カイザー、メアリが座り、御者台にはランスとリックが座っていた。その全員が貴族である。
御者台から「この先揺れるよー」と、ランスが声を掛けてくれば、ヘルミーナの前にカイザーの腕が差し出された。
「それではまだ討伐の時期ではないのを、今回のために繰り上げたということでしょうか?」
乗り慣れない幌馬車に、ヘルミーナは一度だけシートから派手に振り落とされている。それ以来、カイザーが支えてくれるようになったのだが、その時は本気で水になって溶けてしまいたいと思った。
ガタン、と大きく揺れた馬車に衝撃で体が浮く。ヘルミーナは反射的にカイザーの腕を掴んでいた。すぐに手を離してお礼を言うと、カイザーは咳払いして話を続けた。
「いや、前回の討伐から半年以上も経っているし、要請が送られてきてもおかしくないんだが……」
「魔物の数が少なかったからでしょうか?」
「メアリの言うことも一理あるが、どうもラスカーナ領地にあるケーズ村で魔物以外の問題が起きているようだ。だが、それでニキア村から要請がないのもおかしい。その調査も含めて騎士団に話が回ってきた。ただ、ウォルバート領と余計な軋轢を生まないために、騎士団の派遣はあくまで偶然を条件に、ケーズ村が今回の計画に協力してくれることになったようだ」
魔物以外の問題に晒されたケーズ村は一族の長であるラスカーナ公爵に連絡を取り、その話は公爵の夫で、王国の宰相でもあるモリスに伝えられたという。
──負傷した騎士の治癒や、噂を流すだけではなかった。
この計画にはルドルフの他にもラスカーナ公爵夫妻が関わっており、自分が行動する裏には複雑な問題が隠れているのだと理解した。
ヘルミーナはカイザーの話を聞いて、改めて気を引き締めるように背筋を伸ばした。
そして、彼らを乗せた馬車はウォルバート領地側にあるニキア村に到着した。
ニキア村からケーズ村に行くには、石橋を渡る必要がある。その昔、それぞれの村が協力して造った石橋は、ヘルミーナたちが乗っている幌馬車でも余裕で通れる大きさだ。
渡るためには通行料を支払い、簡単な検問も行われる。この通行料は山奥で暮らしている彼らにとって貴重な資金源だ。
「あんたら、商人かい?」
石橋の手前で馬車を止めると、青い髪をした二人の兵士が近づいてきた。すると、カイザーが荷台から降りて対応に当たった。
「旅商人だ。護衛は私一人で、あとの四人が商人だ」
村人に雇われた兵士は、屈強な体に長身のカイザーにたじろいだが、人懐こい笑顔を見せられると安堵した表情を浮かべた。
兵士はヘルミーナのいる荷台にもやって来て積荷の確認を行ったが、どこにでも生えている薬草と、その薬草から抽出したのだろう、青い瓶に入った苦薬に顔を顰めただけだ。
「俺たち仲の良い兄妹同士で各地を巡ってるんだよね〜。おじさんも一本どう? これ飲むとすごーく元気になるよ?」
「生憎、悪いところはないんでな。それより行くのはいいが、ケーズ村で商売するなら気をつけた方がいい」
「何かあったのか?」
冗談半分で青い瓶を差し出すランスに、兵士は拒否した。ランスの説明は全く間違っていないのだが、苦くて不味いと思っている薬をありがたく受け取る者はいないだろう。
実際は、ただの水にヘルミーナの神聖魔法をかけたもののため、不味くはない。苦くもない。
無理やり売りつけようとするランスにカイザーが割って入り、兵士が漏らした不穏な言葉について訊ねた。
「どうも、ケーズ村の人間がここ半年の間に五人ほどいなくなっているらしい」
「魔物の仕業か?」
「そこまでは分からんが、村は全く荒らされていないようだ。ただ姿を消したのは身寄りのない者ばかりで、自ら山に入って行ったような話もある」
死に場所を求めた者が魔物のいる山に入っていくという話は聞いたことがあるが、同じ村の者がここ最近になって五人も同じ行動を取るとは思えない。それに身寄りのない者ばかりが消えたのも不思議だ。
だが、身寄りがいない者だからこそ騒がれずに済んでいるのだ。貴族だったら一人いなくなっただけでも大騒ぎになっていたはずだ。
兵士は「今日はこの村に留まった方がいいんじゃないのか」と言ってきたが、カイザーたちは丁重に断り、通行料を支払った。
「副団長?」
「……いや、何でもない。先を急ごう」
一瞬、村に視線を走らせたカイザーは、しかしリックに呼ばれて馬車に戻った。
ヘルミーナも気になって村の様子を窺ったが、とくに変わったところはない。必要以上に見られていること以外は。
それも旅商人が珍しいからだろうと思い、ヘルミーナたちを乗せた幌馬車は石橋を渡ってラスカーナ領地に足を踏み入れた。
ケーズ村は大きさも人口も、先程の二キア村とほぼ変わりない。けれど、異様なほど静まり返っていた。首都のように活気に満ちた場所ではないが、道を歩く村人はおらず、店も閉まりきっている。
それでも村に一つだけある宿に到着すると、店主の女将が出迎えてくれた。
「こんな山奥の村に旅商人なんて珍しいねぇ。何を扱っているんだい?」
「薬草と飲み薬です」
女将に訊ねられて、メアリが運んできた商品の一部を見せると「本当に売れるのかい?」と心配された。やはり青い瓶はどこに行っても警戒されるようだ。
けれど、村の雰囲気と違って明るく振る舞ってくれた女将に、ヘルミーナたちも表情を緩めた。宿の客はヘルミーナたちだけとあって、久々の客に喜んでいた。
でも、村を襲った問題は何一つ分からなかった。どうすれば五人もの人間がいなくなってしまうのか。言い様のない恐怖に、村全体に影が落ちていた。
しかし、ヘルミーナが到着してから数刻。
闇に呑み込まれようとしていた村に、一筋の光が差し込んだ。
ケーズ村に第二騎士団が到着したのだ。知らせを受けた村人は、赤い団服を身に纏った騎士に歓喜の声を上げた。カレントと同様、村ではお祭りでも始まったのかと思うぐらいの騒ぎが起きた。
宿の窓からその光景を見物していたヘルミーナは、思わず感嘆の声を上げていた。
「凄いですね。皆さん本当に嬉しそうです」
「まぁ、王国騎士団だからねー」
王国騎士団は何百年と王国を守り続けてきた古い歴史がある。魔物を倒すだけではない。こうして沈んでいた村に活気を取り戻させ、希望を与えるのも彼らの使命なのかもしれない。
だからこそ、騎士の命を救うことで大勢の民を助けることが出来るのだ。
「ミーナ嬢、夜になったら騎士団の陣営に行こうと思うんだが」
「私も負傷した方々の状態を見ておきたいので一緒に行きます」
その夜、ヘルミーナはカイザーと共に人目を避けて騎士団の陣営に向かった。
村から少し離れた広場にいくつもの天幕が張られ、二人は騎士団を率いる第二騎士団団長、ダニエル・ロワイエの元を訪ねた。
「来たか、カイザー」
「ご苦労さまです、ダニエル団長。パウロもここにいたか」
カイザーがひとつの天幕に入ると、魔道具のランプに明るく照らされた空間にはダニエルとパウロが待っていた。
ダニエルは背中まで伸びた紫色の髪を後ろで一つに束ね、切れ長の青い目に鼻筋の通った端正な顔立ちをした男性である。
ある日、ダニエルとマティアスが並んでいるところを偶然見てしまったメイドたちが、こぞって倒れ込んでいたのをヘルミーナは思い出した。
「お前がここに来た理由は他の騎士から聞いた。だが、このことはマティアスは知らないんだな」
「それは……」
「まあ、ルドルフ殿下も関わっているから問題ないだろうが。それに、お前が来てくれて心強いのも確かだ」
いつもは堂々としているカイザーが、ダニエルを前に動揺を見せた。
後になって知ったことだが、ダニエルはマティアスと同期で、問題児揃いの第一騎士団の尻拭いをしてくれているダニエルに、カイザーは頭が上がらないようだ。面白い上下関係を目撃してしまった。
ダニエルが嬉しそうにカイザーの肩を叩いた後、彼の視線がヘルミーナに移った。
「ヘルミーナ様も、このような場所までご足労いただき感謝致します。負傷している騎士の確認でしたね。今、パウロに案内させます」
「宜しくお願いします」
ロワイエ侯爵家とはあまり良い関係ではなかったが、ダニエルだけは違った。
彼は騎士として名を馳せ、ヘルミーナたちもダニエルの活躍を良く聞かされていた。とくにエーリッヒはダニエルに憧れ、目を輝かせながら話してくれた気がする。同じ水属性として尊敬出来る人だ。
ヘルミーナは二人に挨拶した後、パウロの案内で負傷した騎士の所へ向かおうとした。
その時だ。
「──誰だっ!」
別の天幕に移動しようとテントの幕を開けようとした瞬間、その場の空気が一変した。
パウロが声を上げたと同時に、カイザーとダニエルがヘルミーナの前を塞ぐようにして立った。何が起きたのか見ることは出来なかったが、腰の剣に手をやったパウロがテントの幕を捲りあげると「うわっ!」と、幼い声が聞こえてきた。
「子供……?」
天幕を出たところで十歳ぐらいの男の子が尻もちをついて倒れていた。パウロは剣から手を離して、男の子に近づいた。
ヘルミーナとカイザーは正体を隠す必要があるため、男の子から見えない場所に移動する。その間にダニエルも男の子の元へ駆け寄り「なぜ騎士団のテントに?」と訊ねた。
すると、男の子は突然地面に両手をついて叫ぶように言った。
「兄ちゃんたち王国の騎士だろ!? だったらオレの母ちゃんを助けてくれよ! あいつらから、母ちゃんを連れ戻してくれよっ!」
訴えるようにして声を張り上げた男の子は、両目からいっぱいの涙を溢れさせた。
母が連れ去られた、と。
身寄りのない者ばかりが姿を消していくという、ケーズ村で起きている不可解な事件が頭をよぎる。
ヘルミーナが視線を上げれば、カイザーとダニエルがお互いに頷きあっているのが見えた。そして、ダニエルは倒れた男の子に手を差し伸べた。
「──今の話、詳しく聞かせてくれるか?」




