番外編「それぞれの婚約事情」
本編がこのあと暗くなりそうだったので、1巻発売まで番外編など投稿していきます。
お付き合いいただけたら嬉しいです。
王国随一を誇る観光地、水の都カレント。
ここでの名物はやはり新鮮な海鮮料理だ。器に盛られた色鮮やかな魚の切り身や大粒の卵が宝石のように輝き、視覚でも楽しませてくれる。首都でもなかなか食べられない素材本来の味。旨味が口いっぱいに広がり、歯ごたえも申し分ない。
加えて、目の前には想い人が座っている。
まさに至福の時──。
それらを打ち砕いたのは、何気なく始まった会話からだった。
「それじゃミーナちゃんは、第二騎士団の団長と婚約話が持ち上がってたってこと?」
「そうなりますね」
……ちょっと、待ってくれ。
ジョッキに注がれたエールを飲みつつ、ここでしか味わえない料理を食べ、同じテーブルを囲んで楽しそうに食事をするヘルミーナの姿に(今なら死んでも良い)などど考えていたカイザーは、思いがけない話にエールを吹き出した。
「副団長……!?」
「カイザー様……!?」
突然激しく咳き込むカイザーに、ランス以外のヘルミーナ、リック、メアリの三人が一斉に立ち上がる。
エールが入ってはいけない気管に入ってしまったようだ。カイザーは片手を持ち上げて大事ないことを伝えたが、呆れ顔のランスには鋭く睨んでおいた。
彼らは最初、明日到着する第二騎士団の話をしていたはずだ。
それがどうして先程の話になったのか。もう一度ランスを一瞥すると「俺、何もしてないんすけど!」と訴えてきた。だが、話の流れからいってランスに原因があるとしか思えない。しかも、夢心地のカイザーに聞こえるように、わざとヘルミーナに聞き返した節がある。
「……ミーナ嬢、今の話は本当か?」
「ええ……と、ダニエル・ロワイエ様との婚約の話でしょうか?」
ヘルミーナから第二騎士団団長の名前がすらりと出てくると、カイザーは口元を押さえた。そんな話は初めて聞いた。
まさか、騎士の中に、ヘルミーナと婚約を交わそうとしていた輩がいるなんて。それも相手は第二騎士団の団長で、身分もしっかりした侯爵家の嫡男だ。
性格は非常に温厚で、人望の厚い男だった。
火属性と水属性の関係は昔から犬猿の仲と言われてきたが、彼が第二騎士団の団長に就いてから、騎士内で度々起こっていた二つの属性による衝突は無くなっていた。魔法も剣術も優れた騎士で、カイザーも尊敬している人物だ。
それだけに、心境は複雑だ。気の短い自分とは違い、彼なら婚約者として非の打ち所がない。
「でも婚約は……その、別の方とされましたよね?」
「私への気遣いはいりません、リック」
ウォルバート一族同士、伯爵家のヘルミーナと侯爵家のダニエルの間に婚約の話が持ち上がっていても不思議ではない。けれど、ヘルミーナが婚約したのは侯爵家より格下の子爵家の嫡男だった。
だが、二人の婚約は破談になるはずだ。
そうなればヘルミーナは婚約者のいない立場になる。もしかしたら自分にもチャンスが巡ってくるかもしれない、と期待しないほうが可笑しい。
そこへ現れた思わぬ伏兵に、カイザーは愕然とした。
「元々、ロワイエ侯爵家とは造船の事業でライバル関係にありました。ですから、私との婚約を機に伯爵家の事業ごと取り込む考えだったのかもしれません。当然、私の父はそれを良しとしませんでした」
侯爵家が欲していたのは伯爵家の事業だけで、伯爵家で雇っていた船乗りや取引のある商会などのことは考えていなかった。仮に、侯爵家に事業を奪われていたら、伯爵領地から多くの失業者が出ていた可能性がある。
「何より娘の私を、政略結婚の道具としか見ていない侯爵家に父が反発したようです。私は当時十歳にも満たない子供でしたから、余計だったのかもしれません。ただ、相手はウォルバート公爵家の親戚ということもあり、断るにはそれなりの理由が必要でした」
「それで伯爵家と繋がりのあった子爵家と婚約を結ぶことになったのですね」
「ええ、メアリの仰るとおりです。子爵家とは事業でも関わりがあり、両親たちも良好な関係にあったので、いつかは……と話していたようですが、思わぬ形で私とエーリッヒの婚約が決まりました」
表向きは家同士を結ぶ婚約だったが、侯爵家を牽制する婚約でもあった。提案を断られた侯爵家からは、多少の嫌がらせはあったものの昔の話だ。
今になってみれば、侯爵家も社交界で「お荷物令嬢」と成り下がったヘルミーナを嫁に迎えなくて良かったと思っていることだろう。
事情を話してくれたヘルミーナは、小さな息を吐いた。
「でもミーナちゃんの婚約が白紙になったら、またダニエル団長との婚約話が持ち上がってくるんじゃない?」
「それはないと思います。侯爵家では今、ダニエル様と姉のセリーヌ様との間で後継者争いが問題になっているようです。なので、お互い伴侶選びは慎重になさるかと」
「でも、ねぇ……。ダニエル団長はミーナちゃんの秘密を知っているわけだし。直接謝りにきたのだって、下心があったかもしれないよ?」
「──ランス、それ以上ミーナ嬢を困らせるな」
本人が「ない」と言っているのだ。「ない」に決まっている。
カイザーは、ヘルミーナにしつこく食い下がろうとするランスを窘めた。ランスは肩を竦めてヘルミーナに謝っていたが、満足のいかない表情を浮かべていた。
ランスが知りたかったのは、ヘルミーナ自身がダニエルをどう見て、どう思っているのか、そんなところだろう。でも、カイザーは聞く自信がなかった。
彼女のことなら何でも知りたいと思っていたが、今回の話は聞きたくなかった。それに、ヘルミーナがダニエルを結婚相手として意識するようになっても困る。
自然とジョッキに残っていたエールも進まなくなり、カイザーは意気消沈した。
すると、テーブルでは会話が途切れ、妙な沈黙が流れた。
先程までの楽しさはどこへ消えてしまったのか。
その時、恐る恐る口を開いたのはヘルミーナだった。
「あの、皆さんの話も伺って良いですか……?」
社交界デビューしてから同年代の人と話す機会がなかったヘルミーナは、遠慮がちに訊ねてきた。しかし、空色の瞳は期待の色を含んでいた。
ちなみに、ランスが真っ先に答えようとして「ランスは結構です」と断られていた。良い気味だ。
「私はそろそろ結婚相手を見つけなければと思っていますが、その前にお兄様が婚約でもしてくださらないと」
「メアリ、そうやって私を理由にするのはやめろといつも言ってるだろ」
メアリがため息まじりに答えると、すかさずリックが口を挟んできた。
ボルム子爵家の兄妹にも婚約者はいない。騎士の家系である彼らは、伴侶になる相手も同じ騎士から迎えている。騎士団の中にも結婚適齢期を迎えた女性はいるが、リックからそういう話は聞こえてこなかった。
第一騎士団に所属しているだけで実力は確かだ。とくにリックは目端が利く。騎士団の中では参謀的な存在だ。面倒見も良く、女性からの人気もあるだけに、彼から浮いた話がひとつも出てこないのは非常に残念だ。
もちろん、他人のことを言えた義理じゃないが。
「それで、副団長はどうなんすか?」
「私は……今のところ婚約する予定はない」
なんでお前が訊いてくるんだ、ランス。
カイザーは誤魔化すように、ジョッキに残ったエールを一気に飲み干した。
「副団長は俺たち火属性の長になる人だし、これでも心配してるんすよ」
「余計なお世話だ」
「そんなんだから二年も見つめるだけの片想いになっちゃうんすよ!」
「……ランス、お前がそんなに死に急ぐ奴だったとは知らなかった」
「今のうちの団長っぽい! 一緒にいる内に似てきたんじゃないすか!?」
カイザーは立ち上がってランスの首を絞め落としにかかった。悲鳴を上げるランスに、リックが止めに入る。
その傍らではヘルミーナが「二年もそのような相手が……」と、興味深そうに頷いていた。
カイザーは必死で誤解であることを伝えたが、ヘルミーナが信じてくれたかどうか。なにせ、事実なのだから。ただ、その相手がヘルミーナであることは、今はまだ言えそうになかった。
でも、ひとつだけ訂正をするなら片想いの期間が違う。
「……私の片思いは、もっと長いのかもしれない」
そう呟いて、カイザーはじっと見上げてくる空色の瞳を見つめた。
確証はないが、これまで自分の直感が外れたことはない。刹那、カイザーはふっと口元を綻ばせ、この世の偶然と奇跡に感謝した。
それから彼らは食事を済ませ、早めに部屋へ戻った。
夜間の護衛はカイザー、ランス、リックの三人が交代で行い、カイザーは夜も更けた時間帯にヘルミーナたちの部屋の前に立った。
伝えたい気持ちは日に日に増していく。けれど、いま伝えたところで彼女を困らせるだけだ。
だから、この時だけはヘルミーナが安心して眠れることだけを願った。
後日、アルムス子爵家のエーリッヒがロワイエ侯爵家のセリーヌと婚約したことで、何も知らされていなかったダニエルが真っ青な顔でヘルミーナに謝罪していた、という話を聞かされることになった。




