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「──人違いだ」
体が硬直して動けなくなっていると、カイザーが体を引き寄せてくれた。背中に回った大きな手から彼の熱が伝わってくる。人混みから護ってくれた時とは違って、なぜか激しい怒りが感じられた。
ヘルミーナはカイザーの外套を握り締め、浅い呼吸を繰り返した。額から嫌な汗が吹き出してくる。
この場に留まってはいけない、と思えば、カイザーも同じ考えだったようだ。ヘルミーナの手を掴んで「行こう」と言ってきた。
カイザーが支えてくれたおかげで、ヘルミーナは歩き出すことが出来た。このまま人違いでやり過ごせたら、どんなに良かっただろう。
けれど、ヘルミーナがあの船に乗り込んでいるのを見られた時点で、無理なことは分かっていた。
「待ってくれ、ミーナ! 君がどんな格好をしようが、僕に分からないわけないだろ!?」
髪色を変えたぐらいでは。
そう言ってくるエーリッヒに、ヘルミーナはこの世の無情さを嘆くように空を仰いだ。振り返らなくても浮かんでくるエーリッヒの姿に思わず目を閉じる。
エーリッヒがヘルミーナに気づいたように、それはヘルミーナも同じだった。あの群衆の中からたった一瞬だったのに、彼の姿を見つけることが出来た。
婚約をしてから、二人は周囲が呆れるほど一緒に過ごしてきた。ヘルミーナの隣にはエーリッヒが、エーリッヒの隣にはヘルミーナが、当たり前のようにあった。
家同士が決めた婚約とはいえ、お互い好き合っていた。
家族や領民たちからも祝福され、きっと幸せな夫婦になれると思っていた。──それだけに、自分たちが辿り着いた結末が悔しくて、虚しい。
ヘルミーナは深い溜め息を吐き、密着するカイザーの胸元に手を押し当てた。
「……ミーナ嬢」
「大丈夫です、すぐに済みますから」
昔を思い出すと面白いほど震えが止まった。恐怖や不快感より、エーリッヒに対する怒りが強かったからかもしれない。
ヘルミーナが振り返って歩き出すと、エーリッヒは安堵しつつも当惑の表情を浮かべていた。深い青色の瞳が自信なさそうに揺れているのを見るのは久しぶりだ。
「ミーナ、今まで一体どこに居たんだ……? 手紙を出しても返事はないし、屋敷を訪ねてもいないと追い返されるし」
「私がどこに居て、どこで過ごそうが、貴方が知る必要はありません」
「僕は心配して……っ! 君から目を離したら、また無茶をして怪我をするかもしれないだろ!?」
彼は、何を言っているのだろう。
エーリッヒの目には今、自分が婚約したばかりの十歳の子供に見えるのだろうか。散々、勝手な振る舞いが出来ないように格好から言動まで、自分の都合に合わせて作り変えたではないか。
彼自身が皆から「可哀想だ」と言われるようになるまで。
ヘルミーナは奥歯を噛み、話を続けるエーリッヒを睨みつけた。
「ミーナテイル号に乗って行ったのだってロッド船長たちを心配してのことだろうけど、君が行ったところで」
「──エーリッヒ・アルムス!」
付き合いが長い分、ヘルミーナは多くのことをエーリッヒと共有していた。カレントという港町も、船乗りの人々も、広大な海も。同じ景色を沢山見てきたのだ。
けれど、今のエーリッヒがそれらを口にすることに嫌悪感を覚えた。大声でエーリッヒの名を呼ぶと、彼は驚いて言葉を詰まらせた。
「いい加減にしてっ! 私たちの婚約関係は終わっているはずよ。これ以上、私の前に現れないで。貴方のこと、許すつもりはないから」
「……ミーナ」
どんな謝罪を用意されても許す気はない。理由がどうであれ、エーリッヒの行動は二人の関係を完全に終わらせたのだ。過去の、築き上げてきた絆さえ。
ヘルミーナは言い切ると、エーリッヒは衝撃を受けたように動けなくなっていた。従順だった女に反論されて戸惑っているのかもしれない。
踵を返して背中を向けると、エーリッヒが「待ってくれっ!」と叫んで手を伸ばしてきた。
その手が触れようとした瞬間、ヘルミーナは反射的に振り払っていた。手がぶつかった瞬間、驚愕と傷ついた顔が目に映る。しかし、胸が痛むことはなかった。
明らかな拒絶を示してカイザーの元に向かうと、それでもエーリッヒは追いかけて来ようとした。
「それ以上、近づくな」
カイザーはヘルミーナの手を取ると、近づくエーリッヒに向かって火の魔法を放った。エーリッヒの前に巨大な火柱が上がると、ヘルミーナはカイザーに抱き上げられてその場から離れることが出来た。
一瞬のことでエーリッヒがどうなったのか分からないが、たぶん燃えてはいないだろう。
「ミーナ嬢」
「……大丈夫です。助けてくださってありがとうございます」
人気のない路地裏にたどり着くと、地面に降ろされた。
カイザーにはみっともない姿を見せてしまった。痴情のもつれを他人に見られるほど恥ずかしいものはない。おまけに巻き込んでしまった。
平静を装うには時間が足りなかったが、幸いにも背の高いカイザーから俯いた顔を見られることはない。先に謝罪だけでも、と思って唇を開きかけた時、頭上からカイザーの声が降ってきた。
「私の責任だ。あの男がここに来ているのを知っていたんだ。だからミーナ嬢を護るために来たっていうのに……。もっと早く知らせなければいけなかった」
「そうだったんですね。……気遣ってくださって感謝します。カイザー様が居てくださって良かったです」
エーリッヒがいることを知らせるために駆けつけてくれたというカイザーに、安心して涙腺が緩みそうになった。
神聖魔法がどんな怪我や病気を治癒したとしても、心の傷までは癒やしてくれない。一人で立ち向かうことはまだ出来なかった。そんな中で、カイザーが傍に居てくれたのは心強かった。
ヘルミーナはくしゃくしゃになりそうになる顔に、帽子のつばを握りしめて引き寄せた。すると、カイザーは咳払いをして続けた。
「私は騎士だから。ミーナ嬢に胸を貸すぐらい、いつでも歓迎だ」
そう言って両手を広げてくれるカイザーに、自然と笑いが溢れた。思えば、彼には情けない姿ばかり見られてしまっている。レイブロン公爵家のお茶会でも慰められたことを思い出した。
ヘルミーナは「では……失礼します」と一言断ってから、カイザーの胸に頭を軽くぶつけた。
薄れてきたと思っていたのに、これからも記憶が蘇るたびにこうして苦しむのだろう。幸せだった思い出の数だけ。いっそ全て忘れられたら楽になれるのに。
その一方で、改めて確信出来たことがある。やはり、自分たちが元に戻ることはない、と。
「……一発殴ってやれば良かったです」
「練習相手が必要だったら私に言ってくれ」
ヘルミーナがぼそっと呟くと、カイザーから至極真面目な言葉が返ってきた。その返答があまりに可笑しくて、ヘルミーナは吹き出してしまった。
──大丈夫。自分はきちんと前に進めている。
★ ★
「急にいなくなるなんて、どうかしたのかしら?」
海岸沿いで突然上がった火柱に、治安部隊が呼ばれる事態となった。火柱はすぐに収まったものの、ここでも野次馬が集まってきた。
エーリッヒは騒ぎが広がる前にその場を後にしていた。咄嗟に顔をかばったせいで、服の裾が焦げてしまっている。
舌打ちしたエーリッヒは、そのまま上流階級だけが入れるレストランに舞い戻った。そこで待っていたのは紫色の髪に、藍色の瞳をした艶のある女性だった。
その美貌は、王太子ルドルフの婚約者であるアネッサと肩を並べるほど。誰と話していようが、どこにいようが、常に余裕のある笑みを浮かべている。
「君と婚約するよ、セリーヌ・ロワイエ侯爵令嬢」
「あら。あれだけ渋っていたのに、どんな心境の変化かしら」
彼女の前にある椅子に腰を掛けるなり、エーリッヒは口を開いた。乱暴な物言いだが、彼女──セリーヌは気にしていない様子で訊ねてきた。
エーリッヒは苛立った様子で右肘をテーブルに乗せ、手の甲に顎を押し当てた。
「……その代わり、事業のことだけど」
「ふふ、問題ないわ。アルムス子爵家が我が侯爵家の傘下に入れば、テイト伯爵家の事業を奪い取るなんて造作もないこと。公爵様も目を瞑ってくれるはずよ。貴方には甘いんですもの。そして私は、一族の英雄という広告を手に入れて、事業の拡大を図るわ」
ウォルバート公爵家とは親戚関係にあるロワイエ侯爵家。公爵家に次ぐ権力を持ち、侯爵家の長女であるセリーヌはすでに三回の婚約解消をしている。けれど、彼女はどこの舞踏会やパーティーに招待されても堂々としていた。
──「お荷物令嬢」と呼ばれているヘルミーナとは真逆だ。
セリーヌは自身が抱えている事業こそ全てだと考えている女性だからだ。
その女性を、エーリッヒに相応しい伴侶として紹介された時は頭痛さえ覚えた。だが、公爵からの話を無下に出来るわけもなく。そして、先延ばしにしてきたヘルミーナとの婚約解消も、公爵からの圧力によって限界がきていた。
しかし、エーリッヒより五歳ほど年上のセリーヌは理解のある女性だった。お互いの利益のために、婚約することを提案してきたのだ。
セリーヌはテイト伯爵家の事業を、エーリッヒはヘルミーナを。それぞれが欲しいものを手に入れた時は、いつでも婚約が解消出来るように契約を結ぶことになっている。
ただ、それでもヘルミーナに対する後ろめたさや未練のためか、今日まで気が乗らずにカレントまで足を運んでいた。彼女に会えるような気がして。
けれど、再会したヘルミーナから受けた軽蔑と拒絶に、エーリッヒは理解した。もう、なりふり構っていられないと。確実に手に入れるためには手段など選んでいられないのだ。
苦笑を浮かべたエーリッヒは、ポケットから露店で購入した物を取り出した。
木彫りで作られた水の妖精のお守りだ。
水の都に現れるという妖精は、多くの者たちに愛され、大切にされてきた。カレントに来ると必ず目にする代物だ。
「このカレントに来るといつも思い知らされるな……。ミーナのほうが僕よりずっと英雄扱いされているんだって」




