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がしっと掴まれた腕に驚いて振り返ると、外套を被った男が見下ろしてきた。
突然すぎて悲鳴を上げることも出来ずにいると、男は目の前のフードを軽く捲って見せた。
「……ミーナ嬢?」
フードの下から現れた赤い髪と橙色の瞳を持った顔に、ヘルミーナは強張っていた体を一気に弛緩させた。
しかし、安堵したのも束の間、新たな疑問が生まれる。
「カイザー様、なぜこちらに……?」
「ああ、やっぱり君だったか。髪色が違うけど、ランスたちが走って行くのを見つけてもしやと思って」
追いかけて正解だった、とはにかむように笑うカイザーに、ヘルミーナはようやく我に返った。
テイト伯爵家の商船が魔物に襲われたと聞いてパニックになってしまったのだ。ランスとリックの制止を振り切って行動してしまうなんて、馬鹿なことをしてしまった。
だが、その間にも不安を掻き立てる声は嫌でも耳に入ってくる。
そこへランスとリックが駆け込んできた。
「ゲッ、なんでここにいるんすか、副団長!」
「護衛に問題があったことは後でじっくり聞かせてもらうからな、ランス。まずは一旦、ここから離れよう」
力なく立ち尽くすヘルミーナに、カイザーの大きな手が肩を抱き寄せてくる。護られるようにして群衆を抜けたヘルミーナは、人通りがまばらな場所に移動した。
船から立ち上がっていた煙は次第に消えていったが、船内がどうなっているのか想像もつかない。
「カイザー副団長、こちらへ来た理由を伺っても?」
「ああ……それは追って話す。それより今起きていることを説明してくれ」
昨日見送ってもらったばかりなのに、彼ほど立場のある人物がやって来たということは何か起きたに違いない。
しかし、カイザーは腕の中で青褪めるヘルミーナを見た後、思い直したように視線を移した。
現状の説明を求められたリックは頷き、野次馬の集まった船を見ながら口を開いた。
「あの商船が魔物に襲われたようです。船内には怪我人が多数。医者の要請を行っているようですが、カレントの病院は現在我ら騎士団が治療を受けているので、すぐに応じるのは難しいと断られたようです」
「馬鹿な。医者が必要な騎士はもういないはずだ」
王国騎士団は各領地において、領民たちの治療を優先的に行うよう命じてある。派遣された騎士も領民の救出を最優先に行動していた。
それにも関わらず病院側が騎士を優先したとなれば、騎士団に悪い噂が立ち、王室への不信感にも繋がりかねない。
すると、カイザーは疑念を抱くような仕草で顎を撫でた後、ランスとリックに命じた。
「……分かった。ランスとリックは至急病院に向かい、医者を待っている船乗りがいれば連れてきてくれ。さらに詳しい状況が知りたい」
「りょーかいっす」
「承知しました。直ちに向かいます」
病院に向かって駆け出していく二人の姿を見送ったカイザーは「まだ病院に居てくれていたら良いんだが」と、自分のことのように呟いた。
ヘルミーナはカイザーの腕の中から、顔だけを持ち上げて見つめた。
彼が来てくれたおかげで不思議と気分が落ち着いた。傍にいてくれるだけで、何が起きても安全だという安心感がある。ランスとリックが絶対の信頼を置いて素直に従う理由が分かった。
「カイザー様、ありがとうございます」
第一騎士団の副団長というのは肩書だけではない。騎士団の支柱のひとつで、彼の存在だけで騎士たちの士気が高まるのだ。
と、ヘルミーナの声に視線を落としたカイザーは、じっと見上げてくる空色の瞳に気づいて固まった。
片方の腕でがっちり抱え込んでしまった体は密着し、無防備にも見上げてくる顔は鼻がぶつかりそうなほど近い。息がかかりそうな至近距離に、カイザーは咄嗟に両手を手放した。
「すまな……っ、いや、ごめん……っ!」
カイザーは自ら後ろに下がって距離を取り、ヘルミーナの温もりが残る手を振り払うように胸元の外套で拭った。慌て過ぎて近くの壁にぶつかりそうになりつつ、必死でその場を取り繕う。
一方、ヘルミーナは改めてカイザーにお礼を言った。彼がいなければ当初の目的も忘れて無茶な行動を取っていたかもしれない。それは決して褒められた行動ではないため、彼女もまた気まずくなった。
二人の間で妙な空気が流れるとカイザーは咳払いをし、先程から気になっていたことをヘルミーナに訊ねた。
「ええ……と、そのピンクの髪色は変装のために染めた?」
「いいえ、この帽子が魔道具になっていて髪色を変えることが出来るそうです」
髪色が違うのに追いかけてきたカイザーには驚かされたが、ヘルミーナはピンク色になった自身の髪を摘んで「便利ですよね」と笑みを浮かべた。
他にも帽子によって様々な色があり、男性用の帽子があったことも教えた。
すると、カイザーは物珍しそうに近づいてきて、ヘルミーナの帽子を眺めた。
「ランスと同じ色というのは腑に落ちないが、とても良く似合っている……と思う。あと、その服も……」
これまで以上に熱のこもった目で見つめられ、太陽を全身で浴びているような暑さを感じた。周囲の温度も急激に上昇した気がする。
ヘルミーナは、カイザーの瞳と同じ色のワンピースを着ているのが急に恥ずかしくなった。それでも彼の言葉を社交辞令とは思いたくない。接する機会が増えたことで、彼の不器用で嘘のつけない実直な性格を知ったから。
ただ、カイザーの真っ直ぐな眼差しに、隠しきれない気持ちまで伝わってくるようで落ち着かなかった。
その時、運良く任務を終えたランスとリックが戻ってきた。
「副団長、連れてきたっすよ!」
助かったとばかりに振り返ったヘルミーナは、二人が連れ帰ってきた船乗りの男を見て目を見開いた。
「おい、どこに医者がいるんだよ! 貴族のお嬢さんと護衛しかいねぇじゃねーか!」
ランスとリックの間に挟まれて現れたのは、小麦色に焼けた肌に、鮮やかなブルーの髪をした二十代の若い男だった。
逞しい肉体は傷だらけで、人相も良くなかったが、ヘルミーナは止められる間もなく彼に駆け寄った。
「──ヤンッ! あなた、無事だったのね!」
「はあ!? なんで、俺の名前……って、お嬢!? でも髪が、いやそれよりなんでここに!?」
ヤンと呼ばれた男は、突然現れたヘルミーナに腰を抜かしそうなほど驚いていた。
ヘルミーナは帽子を脱いで水色の髪を見せると、そのまま問い詰めるように口を開いた。
「そんなことより船が魔物に襲われたと聞いたわ! ミーナテイル号の皆は無事なの!? ロッド船長は!?」
「あ、はい、みんな無事です! 親父……じゃなくて、船長も元気です! ただ怪我人が多くて……」
そう言ってくるヤンも怪我をしていたのか、服に血が染み付いていた。仲間を思って悔しさを浮かべるヤンに、ヘルミーナは帽子を被り直して彼に近づいた。
ところが、ヤンに触れる前にカイザーの手が差し出されて、それ以上進むことが出来なかった。
すると、カイザーはヤンに向かって話し掛けた。
「医者の手配が出来ないと聞いた。だが、入院している騎士たちは皆、危険な状態から脱しているはずだ」
「そりゃあ、俺たちが船乗りだからだ……です。ここ最近、船乗りたちが治療費を踏み倒してるっていうんで、医者たちも取り扱ってくれなくなったんです」
ヤンはすぐに「もちろん、俺たちはそんなことしてません!」と否定したが、一部の悪い輩のせいで、船乗り全員が不当な扱いを受けているのだという。
カイザーは察したように「それで騎士が口実に使われたのか」と顔をしかめ、リックとランスも表情を曇らせた。
この間にも、船内では怪我で苦しんでいる仲間たちがいるのに。
ヘルミーナは今度こそ両手を伸ばして、焦りを滲ませるヤンの手を取った。
「──ヤン、私を船に連れていって。お父様がまだ到着していないのなら、今のあの船の責任者は私だわ。治療薬ならあるから、私を船に乗せて!」
また無茶なことを言ってくる。そう言いたげなヤンだったが、ヘルミーナの切実な訴えと、周囲にいた男性陣の「やはりこうなってしまったか」と、最初から諦めていた様子にヤンは頷くしかなかった。
こんな非常事態の中、雇い主の娘を船に乗せたとなれば船長にこっ酷く叱られるが、ヘルミーナに逆らえないのもまた事実だ。
彼女こそ、船乗りたちが大事にしているお守りのような存在なのだから。
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