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水の都カレントに向かうヘルミーナの護衛騎士に選ばれたランスとリックは、ルドルフから命じられていたことがある。
ヘルミーナの身の安全を第一に、何事も穏便に、目立つことなく行動すること。
騎士であることを隠して護衛の任務につくことは良くある。
王族が時々お忍びで市井の世情を視察に出かけるのだ。その際に同行し、周囲に正体が気づかれないように護衛することが役目だ。ただ、護衛対象である彼らも自分たちの立場が分からないように気をつけてくれるため、今まで問題が起きたことはなかった。
だが、普段から正体を隠して行動する者など限られている。慣れていない者が何かの事件や事故に巻き込まれた時、冷静になって動くことは難しい。普通であれば正体を隠していることも、忘れてしまうのが殆どだ。
まさに、今のように。
「ヘルミーナ様、お待ちくださいっ!」
リックは体を翻して駆け出していくヘルミーナに向かって叫んでいた。だが、彼女の体はみるみる遠ざかっていく。
どうして、こうなったのか。
最近こんなことばかりだと思いたくはないが、一人の貴族令嬢と出会ってから予想外のことばかり起きている。視野を広く持って様々なことに対処出来る能力はある方だと思っていたのに、彼女の行動はその斜め上をいっていた。
「ミーナちゃんと一緒にいると退屈しなくて済むよ」
「そんな悠長なことを言っている場合か!」
軽口を叩いてくるランスに、リックは叱咤した。二人もまた彼女の背中を追いかけるが、なかなか差が縮まない。これでもこちらは現役の騎士なのに。
ランスに同意するつもりはないが、リックは言わずにいられなかった。
「貴族令嬢がこんなに速く走れるなんて思いもしないだろっ」
カレントに到着した当日、彼らは市場を巡った。
到底一日で回れるような場所ではなかったが、ヘルミーナは記憶を辿るようにしてランスとメアリを案内した。リックは荷物番のため宿に残った。
古くからある店はそのまま残っていたが、異国の商品を取り扱っているところは初めて見る店ばかりだ。けれど、カレントの町並みは懐かしさと親しみがあった。
「ミーナ様、こちらの帽子は髪色が変えられる魔道具のようです」
「髪色が……」
魔道具を取り扱っている区画に足を踏み入れると、首都でも見かけない道具が並べられていた。
メアリは花のついた麦わら帽子や、クロッシェを見つけて足を止めた。
魔法石がついた帽子は髪自体が変化するわけではなく、帽子を被ることで髪色が変わって見えるという仕組みのようだ。裕福な平民でも手が出せるほどの値段で、変装道具としては画期的だ。
ヘルミーナもメアリと並んで帽子を選んでいると、頭の上にポンッと物が載せられた。
「ミーナちゃん、これにしなよ! 俺と同じピンク色。こうすれば俺に可愛い妹が出来たみたいじゃん」
それは薄桃色のコサージュがついた白いキャペリンで、可愛らしい帽子だった。メアリの差し出してくれた手鏡で確認すると、ピンクの髪色というのも悪くない。
すると、ヘルミーナが何か言う前に「じゃあ、これで」とランスが買ってくれた。一緒に回っていたヘルミーナとメアリは、女性のエスコートに慣れ過ぎなランスに若干引いていた。本人は無自覚だから余計質が悪い。
帰宅後、ピンク色の髪をリックに披露したら「似合っていますが、ランスが兄だったら苦労しますね」と言われて、ヘルミーナは思わず力強く頷いてしまった。
カレントの一日目は市場の観光であっという間に終わってしまった。
二日目は港の方に行って屋台巡りをすることになっていた。そちらは観光客も増えるため、リックとランスがついてきてくれることになった。
ヘルミーナは昨日買ってもらった帽子を被り、髪色に合わせてオレンジ色のワンピースを用意してもらった。今までとは違った雰囲気に、妙に浮足立ってしまう。
逸る気持ちを抑えてヘルミーナはリックたちと港へ向かった。
「そういえば、この小さい羽根のついた妖精の商品を良く見かけますね」
「ああ、それ俺も思った。お店の至るところに飾られているよね」
港付近は新鮮な魚介類を取り扱った店が多く、屋台からは胃袋を刺激する香ばしい匂いが漂ってきた。ここは観光客だけでなく、船乗りの男たちも利用しているため賑やかだ。
「なんだい、お前さんたち知らないのかい? これは水の妖精さ」
「水の妖精ですか?」
いくつか屋台を回って食べ物を物色していると、魚介の串焼きを出している屋台でヘルミーナたちは立ち止まった。
屋台の柱には羽根のついた少女の木彫りがぶら下がっている。他の屋台や、昨日訪れたお店でも見かけたものだ。
「ああ、そうだ。カレントは水の精霊による加護を受けて、水の妖精が現れるんだ。海賊船がやって来たときは、水の妖精が船内を水浸しにして追い払ってくれたっていう話さ。悪戯好きのお転婆な妖精だが、船乗りの男たちでもお守りにしているぐらいだ」
船乗りにも負けない屈強な体をした店主は、水の妖精の話をしてくれた。
ヘルミーナもつい聞き入ってしまったが、ふと視線を感じて顔を上げた。
「……どうして私を見るんですか」
「いやぁ、この妖精がミーナちゃんに似てるなと思って」
「意外とミーナ様の幼い頃をモチーフにされているのかもしれませんよ?」
ランスとリックが妖精の飾り物と見比べてくる。ヘルミーナは否定したが、二人の生暖かい視線に耐えかねて、その屋台の焼いてあった串焼きをすべて買い上げた。気を良くした店主はおまけをたっぷり弾んでくれたが、三人で食べるには多かった。
ヘルミーナは買った後、逃げるようにして屋台から離れたが、後ろからついてきたリックとランスは必死で笑いを堪えていた。途中、ランスは「もう無理っ」と言って盛大に吹き出していたが。
気恥ずかしさに居た堪れなくなったが、ただ、広場に行って頬張った魚介の串焼きは感動するほど美味しかった。
残ってしまった串焼きはメアリへのお土産にすることにして、三人は港に停泊している船を見に行くことにした。
しかし、ヘルミーナたちがたどり着いた時、すでに多くの人だかりが出来ていた。
その尋常じゃない騒ぎに、群がっていた一人に「どうかしたんですか?」とリックが訊ねた。
「それが、さっき着いた船が魔物に襲われていたらしい。怪我人もいるっていうんで医者を呼びに行ったんだが、カレントの病院は今、王国の騎士様たちがいるからなぁ」
「薬草や傷薬も買い込んでいったようだが、酷くないといいんだがな」
「あの、それはどこの船だと言ってましたか……?」
「確か貴族様の商船だったはずだ。詳しくは知らないが、船の名前はミーナテイル号……」
船の名前が出た瞬間、ヘルミーナは血の気が引いていくのを感じた。同時に、一瞬立ち尽くしてしまった体は思考とは別に動き出していた。ヘルミーナは体の向きを変え、走り出していた。
後ろからリックとランスが呼び止めてくるが、足を止めたら地面から迫ってくる恐怖にのみ込まれそうで恐ろしくなった。
そんな中、脳裏に浮かんできたのは、幼い頃に交わした父親との会話だった。
『よし、この船はヘルミーナの名前をつけてやろう。どんな災難が降り掛かっても、必ず港に戻ってきてくれる船になるはずだ』
『ミーナもあれに乗れる?』
『そうだな、大人になったら乗せてやろう。それまでまた勝手に一人で乗ったら駄目だぞ』
──お父様……。
ヘルミーナは群集の間をすり抜けるようにして駆け抜け、白い煙が立ち込める一隻の商船にたどり着いた。そこにはすでに治安部隊が到着し、船には近づけないようになっていた。
こんな時、以前のエーリッヒだったら呆れつつ手を貸してくれたのだろう。そう考えてヘルミーナは首を振った。思い出の地に来たせいで、余計なことまで蘇ってくる。
ヘルミーナは周囲を確認し、誰にも気づかれず船に乗り込む方法を探った。
刹那、人と人の間から伸びてきた手がヘルミーナの腕を掴んできた。
「──っ!」
反射的に振り返ると、目の前に現れた人物にヘルミーナは空色の目を大きく見開いた。




