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王都内にある孤児院の慰問から戻ってきたルドルフは、そのまま執務室に向かった。
絶えず笑顔で振る舞っていたせいか、表情筋が固まってしまっている。ルドルフはソファに腰掛け、口角を下げるように口元を撫でた。
孤児院では孤児が増えていた。町や村が魔物に襲われて、両親を失った子供たちが年々増加している。地方の孤児院でも定員を超え始めていた。
そこで孤児院に足を運び、増築などの提案も含めて訪問してきたが、王都で増築出来そうな孤児院はなく、費用や人員の確保などの問題も山積みだった。
ルドルフは白金色の前髪を掻き上げて、ふーっと息を吐いた。
魔物の被害が日に日に深刻化してきた。多くの者たちが魔物の脅威に晒されている。
──奇跡の魔法があれば、多くの者たちを救うことが出来るだろう。孤児になる子供をこれ以上増やさないで済むかもしれない。今は隠されているが、彼女の力があれば直面している問題を解消することが出来る。
それだけに、民を救わなければいけない己が、その恩恵を受けてしまったことに罪悪感を覚えていた。過去の屈辱が払拭され、新しい希望を与えられた。国王もまたその奇跡に救われている。
光属性という奇跡を宿したヘルミーナによって。
だからこそ、彼女の扱いに悩みが尽きない。ヘルミーナがもっと狡猾で、損得を考えながら動く人物だったら簡単だった。取引を持ちかければ済む話だ。
けれど、彼女は実直で真面目過ぎた。婚約者にも良いように使われてしまったのは、そのせいだろう。ヘルミーナは他人を気遣い、自己犠牲の強い女性だった。
怪我人のために神聖魔法を使ってほしいと言えば、命令でなくてもヘルミーナは治癒を施すだろう。目に見えて分かる結果に、ルドルフは苦笑を浮かべた。
その時、侍従のフィンが銀のトレイにお茶を載せて運んできた。普段はメイドの仕事だが、何かのついでに持ってきてくれることもある。ただ、近頃は仕事に忙殺されてそれもなくなっていた。
「フィンがお茶を運んでくるなんて久しぶり……」
顔を上げてフィンに視線をやったルドルフは──しかし、カップから漂ってくるお茶の香りに表情を険しくさせた。
テーブルに置かれたそれは、ルドルフが好んで飲むお茶ではなかった。カップに注がれた赤いローズティーを見て、ルドルフは嫌な予感がした。
「母上の身に、何かあったのかい?」
「……大事なお客様を、薔薇の庭園へ招かれました」
ルドルフが訊ねると、フィンは顔を強張らせた。
いくら家族であっても、王族となればお互い多忙な身。個々のスケジュールを把握しているわけではない。だが、王妃が薔薇の花園に人を招待した時は、必ず国王やルドルフに伝わることになっていた。
宮殿の警備体制は厳重だが、エルローズ宮殿の庭園だけは王妃の許可がない限り誰も立ち入ることが出来ないからだ。
万が一のこともあり、来客の名前と訪問日時だけは知らされていることになっていた。その一方、報告を受けなければ王妃が誰を招き、誰と顔を合わせているか知らないままだ。
ルドルフは椅子から立ち上がり、顔色を悪くするフィンに近づいた。
「……まさか、母上はヘルミーナ嬢を?」
「招待、は……本日……っ」
フィンは言葉を詰まらせながら答えた。直後、胸元を押さえて突然苦しみ出した。銀のトレイが床に落ちて乾いた音を立てる。
ルドルフは倒れ込むフィンを受け止めたが、彼は激しく咳き込んで血を吐いた。その症状には嫌でも覚えがあった。
「母上はお前に『契示の書』まで使ったのか!?」
「申し訳、ありません……殿下……っ」
「もういい、喋るな!」
黙るように指示しても痛みを堪えて口を開こうとするフィンに、ルドルフは「──誰かいないかっ!」と声を張り上げた。
魔法契約によって秘密が漏れることを防ぐ『契示の書』は、他人へ契約上の秘密を漏らそうとした時、体内の臓器という臓器が締め付けられるような苦痛を味わう。最悪の場合は死に至るため、取り扱いには細心の注意が必要だ。
王室では漏れてはいけない秘密が多いため、ルドルフもまた『契示の書』は身近なものだった。そして、魔法契約によって命を失った者たちも見てきた。契約自体は簡単だが、交わした約束は必ず守らなければいけない。
ルドルフの声を聞きつけて廊下の前にいた兵士が駆け込んできた。偶然近くにいたメイドが、開かれた扉からルドルフたちを見て短い悲鳴を上げた。
「すぐに王宮医を!」
兵士はルドルフの元に駆け寄って、ルドルフと共にフィンをソファへ運ぶのを手伝い、メイドは真っ青になりながらも王宮医の元へ駆けていった。
★ ★
騒々しさが静まり返って、窓辺に夕日が差し込み始めた頃。
王宮内の医務室に、専属侍女と護衛を連れた王妃が訪れてきた。王妃の甥が病気で倒れたと報告があったからだ。個室へ案内されると、王妃は侍女たちに室内の外で待っているように指示した。
中へ入るとフィンが息苦しそうに眠っていた。王妃はベッドに近づき、表情を変えることなく彼を見下ろした。
「……母上、フィンに『契示の書』まで使う必要があったのでしょうか?」
ベッドを挟んだ反対側に、息子のルドルフが神妙な面持ちで椅子に座っていた。
王妃が来ることは予め知っていたようだ。
「王太子であろう者がこのようなことで狼狽えてはいけないわ。それに、この子の忠誠がどちらにあるか分かっただけでも良かったのではなくて?」
「母上! フィンは貴女の甥であり、私の侍従です!」
俯いていた顔を持ち上げて、ルドルフは王妃を見つめた。
誰よりも魔力があり、父親である国王を最も傍で守る剣のような王妃が、息子の目から見ても羨ましく憧れでもあった。
けれど、今回の王妃の行動は目に余るものがあった。
「ええ、分かっているわ。だからこうしてヘルミーナが献上してくれた魔法水を持ってきたのよ」
「……っ、母上!」
「声を荒らげないでちょうだい。フィンが起きてしまうでしょう?」
「ヘルミーナ嬢を薔薇の花園に招いたと聞きました。母上は彼女をどうするおつもりですか?」
「どうも考えていないわ。ただお礼をしたかっただけよ」
赤い小瓶を差し出してきた王妃に、ルドルフは顔を顰めた。なかなか受け取ろうとしない息子に嘆息した王妃は、小瓶をフィンの枕元に置いた。
確かに、ヘルミーナの作った魔法水があればフィンの負った傷は瞬く間に癒えるだろう。だからといって、何もなかったことには出来ない。
ルドルフは膝の上で両手を組み、王妃に向けて鋭い視線を向けた。
「……私の伴侶を、ヘルミーナ嬢に取り替えようと考えたのではありませんか? 母上はセンブルク公爵家に生まれながら、四大公爵を快く思っていませんでした。当然、私とレイブロン公爵家の娘であるアネッサの婚約も否定的だったはずです。それとも、ヘルミーナ嬢を利用してラゴル侯爵家を真の王族に押し上げるおつもりでしたか?」
どこの国にも欲にまみれた業の深い人間はいる。権力者たちが集まった王城内では、お互いに牽制しあっていた。
皮肉なことに、魔物という共通の敵によって均衡が保たれているが、それもいつまで持つか分からない。両親の仲を疑ったことはないが、人の心ほど読めないものはなかった。
「──馬鹿ね。王妃であるわたくしがそんな愚かなことを考えるとでも? 王都の外では魔物が活発化し、多くの者たちが犠牲になっているわ。このような守られている場所で争っている場合ではないのよ、ルドルフ」
中でも、母親でもある王妃は掴みどころがなかった。
ラゴル侯爵の婚約者候補だった王妃は、西の城壁を離れて今では国王の妻で、王太子の母だ。しかし、王妃は夫や子供にも本心を曝け出そうとはしなかった。
ルドルフは息をつき、椅子から立ち上がった。
「どうか、これ以上勝手なことはなさらないで下さい。次は西の城壁からラゴル侯爵をお呼びすることになります。それだけは私も避けたいですから」
「わたくしの息子も随分な性格になったわね」
「ええ、貴方の息子ですから……」
王妃はルドルフの言葉に口元を緩めると、すぐに踵を返して部屋から出ていった。王妃がいた場所から、微かに花の香りが漂ってくる。
出ていく王妃を見送ったルドルフはベッドに戻ってきた。それから、王妃の置いていった赤い小瓶を手に取る。
「起きているなら声ぐらい掛けたらどうかな?」
「……親子の会話を邪魔してはいけないと思いまして」
「元気そうで良かったよ。母上が持ってきた魔法水を飲むかい?」
目を開いたフィンは、視線だけを動かしてルドルフを見た。声を出すと内臓の至るところが締め付けられるように痛んだ。
ルドルフはフィンの傍に近づき、彼の上体を支えて小瓶に入っていた魔法水を飲ませた。キラキラと光る液体は紛れもなくヘルミーナの作った奇跡の水だ。
フィンは口から入ってきた魔法水を飲み、不思議な力が体内に行き渡っていくのを感じた。それから数分もしない内に、フィンの体は見事に完治していた。
「これが神聖魔法で作った癒やしの水ですか」
「どこか痛いところはあるかい?」
「いいえ、全く……。それどころか以前より調子が良くなった気がします」
先程までは息をするのも辛かったフィンは自力で上体を起こし、両手を握っては開いてを繰り返し、体に異常がないか確認した。
「ヘルミーナ様はいかがされましたか?」
「それはマティアス卿にお願いしたよ。母上もラゴルの者には手を出せないからね」
王妃を相手に適任者は他にいなかった。ラゴル侯爵家の者たちを近づけたくはなかったが、今回ばかりは仕方ない。
マティアスの名を出すと目を輝かせるフィンに、どうもセンブルク一族は風の民を崇拝している節がある。ただ、ラゴル侯爵家は未だかつて政界に足を踏み入れたことはなく、忠実な臣下として魔物から西の城壁を守り続けていた。
これからもそうであってほしいが、ラゴル侯爵家に限らず常に目を光らせておくのが王族の役目だ。
「王妃様は本当に先程のことをお考えに?」
「うーん……どうかな。違うとは言い切れないけど、どちらにも反応しなかったからね。意外と母上も、私と同じものを守ろうとしているのかもしれないね」
「とにかく、心臓に悪いので王妃様に対して二度とあのような会話はお控え下さい」
「フィンはどちらの味方かな?」
すると、ベッドから下りようとするフィンに、ルドルフは手を差し出した。
対等ではないが、彼ほど頼れる臣下はいない。王妃の言葉は気に入らないが、今回の事件でより強くフィンへの信頼度が増した。
「それは勿論、ルドルフ殿下の侍従である以上、私の主は貴方だけです。過労死することになっても恨みはしません──」
フィンは口の端を持ち上げ、ルドルフの手を掴んで強く握り締めた。
後日、王太子の侍従が過労で倒れて血を吐いたという噂が城内を巡り、ルドルフは小さな批判を受けることになった。ただ、噂の出処は不明だった。




