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──僕の婚約者へ。この間はごめん。君が婚約解消に同意したと聞いて焦ってしまったんだ。どうしてあんな酷いことをしてしまったのか、君を傷つけるつもりはなかった。
──愛するミーナへ。まだ怒っているのか? だから返事をくれないのか? 僕には君しかいないんだ。ミーナだって僕しかいないだろ? もう一度会って話をしよう。僕の婚約者は君だけだ。
──君からの返事を待っている間、君のことを考えていた。初めて君を紹介された時のこと。それから伯爵令嬢の君が格下の僕と婚約してくれた時のこと。僕は一生をかけて君を大切にしようと決めた。本当に愛していたんだ。誰にも奪われたくなかった。だから、君にあのような仕打ちを……本当にすまなかった。
──ミーナ、もう僕を試すのは止めてくれ。早く逢いたい。一日でも君を考えない日はない。これまでしてきた償いをさせてほしい。一緒に出掛けて、買い物や食事を楽しんで、君に似合いそうなアクセサリーを贈りたい。また昔のように楽しい時間を過ごそう。愛している、ミーナ。
……くしゃり。
最後の手紙を読んだ瞬間、ヘルミーナはその手紙を握り潰していた。
淑女としてあるまじき振る舞いだが、咎める者は誰もいなかった。周囲は息を呑んで見守っていた。
「手紙は全て燃やして下さい。私には必要ありません。──何を言われても私たちが元に戻ることはありませんから」
二人を繋いでいた糸は完全に切れた。
ヘルミーナは顎を持ち上げて己の意思を伝えると、目の前に座っていた王太子のルドルフは楽しげに笑い、彼の隣に座っていた婚約者のアネッサは深く頷き、同じく招かれていたランスは「すぐにでも」と片手から火を出した。
婚約者は知らないだろう。
今のヘルミーナは、もう一人ではなかった。
時間は遡り、ルドルフが魔物を倒した翌日。ヘルミーナはランスと共に彼の執務室に呼ばれていた。ルドルフの侍従であるフィンに案内されて室内に入ると、中ではルドルフとアネッサが待っていた。
何度も顔を合わせている内に免疫がついたようだ。体が硬直することはなくなった。
挨拶を済ませた後、彼らと対面する形でソファーに腰を下ろす。横で立ったままになっているランスに半分譲ったが、丁重にお断りされた。
「ヘルミーナ嬢の父上から手紙を預かってきたよ」
「父からですか……?」
素早くお茶を用意してくれたフィンは、さらに銀のトレイに手紙を載せて運んできた。てっきり一通だと思った手紙は、ざっと数えて二十通はあるだろうか。それらが麻紐に括られて束になっていた。
「正確には君宛に届いた手紙を、こちらに送ってきてもらったんだ。送り主はアルムス子爵家の令息で、君の婚約者だね。まだ辛うじてだけど」
「──……っ」
君の婚約者、と言われてヘルミーナはぞわりと寒気が走った。無意識に自分の両腕を引き寄せる。
ヘルミーナが手紙に手を伸ばすこともせずにいると、ルドルフは続けて口を開いた。
「どうやら伯爵邸に幾度となくやって来ては、君を出せと喚き散らしているようだ。私兵のおかげで、屋敷の中まで乗り込まれることはなかったようだけど。でも彼はまだ君を諦めていないらしい。君の父上は婚約が早く解消されることを望んでいるが、君達は子供の頃に婚約した仲だ。家族も同然だろう。テイト伯爵も悩んだ末、この手紙を届けてきたようだ。君の心変わりを危惧してね」
ルドルフは説明しながら、持っていた別の手紙をヘルミーナの前に差し出してきた。父親がルドルフに宛てた手紙だ。恐る恐る手紙を取って中の便箋に目を通すと、ルドルフが先程話した内容が書かれていた。
本当は捨てようとしたが、娘に判断を任せたいと書かれてあった。父親から信頼されている気がして嬉しかった。おかげで、婚約者からどんな内容の手紙が送られてきても恐れずに向き合えた。
ヘルミーナはルドルフ達に断りを入れてから手紙を開封した。
そういえば婚約者のエーリッヒから、個人的な手紙が送られてくるのは何年ぶりだろう。誰が書いているかも分からない用件だけの手紙が送られてくることはあったけれど。
子供の頃は良く手紙のやり取りをしてきたのに、今は懐かしいとさえ思わなくなった。エーリッヒの成長していない文字を見ても。
手紙の封を切って一通ずつ読んでいったが、ヘルミーナの表情は淡々としていた。
付け加えるなら、昨日初めて魔物を見た。その魔物が討伐される瞬間を見学していた。そこへ王太子のルドルフがヘルミーナの前に跪いて誓いを立てた。全てが信じられないことの連続だった。
だから、昨晩は興奮して眠れなかったのである。そう、徹夜明けだ。今朝出された料理さえ覚えていない。
でも、昨日の興奮だけはまだ冷めていなかった。そこへ水を差すような手紙だ。握り潰したくもなる。
夢心地から一気に現実へ引き戻された感覚に、ヘルミーナの目は完全に据わっていた。
「お手を煩わせてしまい申し訳ありませんでした」
「君が謝ることではないよ」
「ええ、そうよ。貴女の元婚約者が現実を受け入れられていないだけだわ」
ランスによって塵となった手紙を見守った後、ヘルミーナは深々と頭を下げた。
手紙を燃やしたランスは「団長や副団長だったらこの部屋ごと吹き飛んでたかも〜。オレで良かったよ」と、一人呟いた。思わず振り返ってランスを見ると「今度会ったら確実に仕留めておくね」と良い笑顔を向けられた。二人が出会わないことを祈りたい。
「改めて、ヘルミーナ嬢は婚約者とやり直す気はない……ということでいいのかな?」
「婚約解消に同意した時から、私の中ではすでに終わっています。今後、どんなことがあっても戻るつもりはありません」
「ふむ、君の気持ちは分かった」
「心配いらないわ、ヘルミーナ。婚約の件はわたくし達に任せてちょうだい」
「ちょうど四大公爵を交えたパーティーがあるね。こちらからウォルバート公爵に直接圧力を掛けるのも悪くない」
目の前で展開される権力者同士の会話に、自然と背筋が伸びる。ただ、自分の出来ることは何もない。
──今更だ。
今頃になって、こんな手紙を貰っても嬉しくなかった。
本心なのか、上辺だけの言葉なのか。手紙には欲しかった言葉がいくつも並んでいた。少し前の自分だったら誤った判断をしていたかもしれない。
でも、求めていた時期はとうに過ぎてしまった。この関係が修復することは、もうないのだ。
ヘルミーナの婚約に関しては、進展があれば知らせてくれることになった。
それから、慌ただしい日々を送っている内に、またエーリッヒのことは思い出さなくなくなっていた。
休日は宮殿の中庭に出て花壇の様子を確認し、テラスでお茶を飲みながらメアリと談笑することもしばし。手紙のことも忘れかけていた。
そこに、フィンがやって来た。彼はヘルミーナの傍にやって来ると、一通の封筒を差し出してきた。一瞬、嫌な記憶が蘇る。だが、送り主は予想外の相手だった。
「ヘルミーナ様に招待状をお持ちしました」
「……どなた様からでしょう?」
「フレイア王妃様です」
がたん、と音を立ててヘルミーナは椅子から立ち上がった。受け取った封筒の封蝋には、薔薇の印璽がはっきり刻印されていた。
「おっ、おおお王妃様ですか!?」
招待状を持ったまま焦るヘルミーナに、神妙な面持ちで「王妃様です」と頷くフィンを見て、絶対に逃げられないものだと唾を飲み込んだ。




