55
『……貴女がまた目覚めなくなるのではと心配なのです』
暗闇から現れたマティアスは、小さな声でそう呟いた。後になって思えば、聞こえない振りをしてやり過ごすのが正解だった。けれど、あの時は反射的に振り返ってしまった。
その拍子にマティアスとぶつかり、奇妙なことに彼の胸元が突然光り出した。不思議と親しみのある光りは、ヘルミーナへ向かって蔦のようなものを伸ばしてきた。挨拶を交わすように触れてきた蔦に、心が洗われるようだった。
『これは……』
『ラゴル侯爵家に代々継がれてきた守り石です』
教えてくれたマティアスは、詰襟の留め金を外して首に掛けていたペンダントを見せてくれた。チェーンの先には銀色の装飾のついた丸い鉱石が光を放っていた。
初めて見るペンダントなのに懐かしさが込み上げてきた。
『これには聖女様の力が宿っていると言われています』
『……聖女様の、ですか?』
『魔力はすでに切れていると思ったのですが、ヘルミーナ様の魔力に反応したのかもしれません』
どんなに相性が良くても魔力が共鳴し合うことはない。それなのに、体内を巡る光属性の魔力が強くなった気がした。ヘルミーナはじっくり眺めていたかったが、マティアスに早く部屋の中へ入るよう急かされてその時はそれで終わってしまった。
「マティアス団長、リックです。今、宜しいでしょうか?」
「──何かあったのか?」
騎士団の宿舎にある貴賓室や執務室が並ぶ一角にたどり着いて、リックは第一騎士団団長の執務室をノックした。入室の許可を求めると、返事が返ってくる前にドアノブが回って扉が開いた。まさか、マティアス自ら扉を開けてくれるとは思わずリックは目を丸くする。
しかし、マティアスの姿を見て納得した。彼は訓練後の湯浴みを終えたばかりなのか、濡れた髪にタオルを乗せ、はだけた白いシャツに、団服の赤いズボンを穿いた姿で現れた。
いつもきっちり着込んでいる姿を見ていたせいか、見てはいけないものを見てしまった気がしてヘルミーナは咄嗟に背中を向けた。びしょ濡れになった猫が浮かんできたが、必死に掻き消した。
「……ヘルミーナ様?」
リックの体に隠れて見えなかったのだろう。しかし、ヘルミーナの気配に気づいたマティアスは目を見開いた。
すぐに「どういうことだ」と訊ねてくる視線には殺気が込められている。命の危険を感じたリックは、両手を持ち上げて素早く答えた。
「申し訳ありません! ヘルミーナ様が至急、マティアス団長にお会いしたいと申されたのでお連れしました!」
「なん、だと……?」
「都合が悪いようなので、また改めて──」
「その必要はない。今すぐ支度する」
リックが早口で用件を伝えると、マティアスは突然表情を変え、開いていた扉を勢いよく閉めた。ヘルミーナもリックの隣に肩を並べて扉を見つめる。
すると、中からゴンッという鈍い音が聞こえてきたが、それからは人の気配が感じられないほど静かになった。
「……お待たせしました、ヘルミーナ様。どういったご用件でしょうか?」
「お忙しいところすみません。実は以前見せていただいたペンダントについてお伺いしたく……」
再び扉を開けたマティアスは、いつもと変わらない格好で出てきた。額には冷や汗が滲んでいるように見えたが気のせいだろうか。
「ペンダントですか。……分かりました、中へどうぞ。リックは扉の前で待機だ。誰が訪ねて来ても追い返していい」
「承知しました」
未婚の男女が密室で二人きりになることは出来ないため、扉は半分ほど開いたままリックが護衛兼見張り役として扉の傍に立っていてくれることになった。
マティアスの持つペンダントは、周囲に知られてはいけないことだったのかもしれない。ヘルミーナはマティアスの顔色を窺った。けれど、彼の表情にこれと言った変化は見られない。気になったのは、髪の毛がしっかり乾いていることぐらいだ。
通された室内は驚くほど殺風景だった。生活感のあったルドルフの執務室とは大違いである。物は最小限に、これと言った飾り物もない。座るように促された紺色のソファーは新品そのものだ。膝元の楕円形テーブルも。いつでも出て行ける準備が整っているようだった。
すると、マティアスは突然ズレていたテーブルの位置を直した。そこは何も訊かずにおこう。
向かいのソファーに腰を下ろしたマティアスと視線が重なった時、ヘルミーナは後先考えず行動してしまったことを後悔した。やはり事前に許可を取るべきだった。彼にはすでに迷惑をかけてしまっているのに。焦るヘルミーナに、先に口を開いたのはマティアスだった。
「ヘルミーナ様、お話の前に私の方から一つ宜しいでしょうか?」
「もっ、勿論です!」
緊張からか上擦った声が出てしまう。しかし、マティアスは一瞬安堵した表情を浮かべると、徐ろに話し始めた。
「先日は私が余計な護衛をしてしまったせいで、ヘルミーナ様にご迷惑をかけてしまい申し訳ありませんでした。決してやましい気持ちがあったわけではなく、貴女に何かあれば連れてきた我々にも責任があり、心配が行き過ぎたのだと思っていただけたら……」
「大丈夫ですっ、分かっております!」
マティアスが言わんとしていることに気づいてヘルミーナは両手を上げた。きっと彼の耳にも、自分との仲を勘違いされた話が入ってきたのだろう。
ヘルミーナは恥ずかしさと申し訳ない気持ちで頬を赤らめた。
「団長様や他の方々にも心配していただき、とても嬉しかったです。お気遣いいただきありがとうございます」
「……そう言っていただけて、良かったです」
夜まで警護してくれたマティアスには、感謝しかない。ヘルミーナは顔を上げて、あの日言えなかったお礼を口にした。ところが、マティアスはさっと顔を背けて素っ気なく返した。ちょっと気さく過ぎたかもしれない。
どちらも沈黙すると気まずい空気が流れる。次の言葉を探していると、咳払いしたマティアスが「それで、ペンダントのことでいらしたようですが」と切り出してくれた。おかげで、当初の目的を思い出した。
「実は、団長様がお持ちのペンダントをもう一度見せていただけないかと思い、こちらに参りました」
「私は構いませんが……少々お待ち下さい」
ヘルミーナの頼みを受けて立ち上がったマティアスは、窓際に置かれた机から何かを掴み取るとこちらへ戻ってきた。
「手を出していただけますか?」
「は、はい」
目で追っていたはずなのに、目の前に現れたマティアスに驚いてしまう。しかし、彼は床に跪いて持ってきたペンダントをヘルミーナの手にそっと載せてくれた。必要以上に近づかず、距離を取ってくれている。
ヘルミーナがペンダントを受け取ると、マティアスは元いた場所に再び腰を下ろした。
「こちらの守り石は、魔法石でしょうか?」
「聖女様の力が込められていたということは、魔法石で間違いないと思います。昔は魔道具もなく今ほど魔法石の存在も知られておりませんでした。ですが、風の民は魔物の討伐に魔法石を古くから使っていたので、もしかしたら聖女様もそこで知り、この魔法石に力を込めて下さったのかもしれません」
ヘルミーナは受け取ったペンダントをじっくり見つめ、光を放った丸い石を確認した。やはり予想していた通りだ。マティアスが持っていたのは光属性の魔力が込められた魔法石だった。
各領地の鉱山から発見された魔法石は宝石よりも貴重な資源だ。現在は、生活に欠かすことのできない魔道具の動力源になっている。また、魔力を吸収することも出来るため、火属性の魔力を注ぎ込めば直接火を起こすことも可能だ。
魔法石に含まれた魔力の量や個体の大きさによって効力が変わり、値段も様々だ。ただ魔法石は高価なだけあって、平民で所有している者は少ない。
ヘルミーナは両手に持ったペンダントを、そのままマティアスに返した。
「見せていただき、ありがとうございました」
「ヘルミーナ様のお役に立てて光栄です」
マティアスはペンダントについたチェーンを持ち上げて、さっと首に掛けると団服の中に隠してしまった。家門の大切な宝物なのだろう。本来は、こうして気軽に見せてもらうことも出来ないはずだ。それなのに、マティアスは躊躇することなくヘルミーナの頼みを聞き入れてくれた。
「あの……団長様が丁寧に接してくださるのは、私が光属性の魔力を持っているからでしょうか? 立場的に、敬語を使っていただくのも申し訳なくて……」
「不快にさせてしまっていたら申し訳ありません。上手く言えませんが、ラゴルの血がそうさせているのか、私にも良く分からないのです」
つまり彼が望んでしていることではないということだ。それを聞いてヘルミーナは声を詰まらせた。マティアスほどの人物が、身分や年齢も下の令嬢に礼儀を尽くさなければいけないのは苦痛だろう。
「……それでは、団長様こそ不快ではありませんか? 私は聖女ではありませんし、光属性を宿したと言っても魔力は少なく、使いこなせているわけではありません。団長様が嫌でしたら私からは近づかないように、」
「いいえ、全くそのように思ったことはありません。分からないと申しましたが、そちらの気持ちも含めて私自身すでに受け入れております。貴女様に対する姿勢も言葉遣いも、全て私の意思だとお考えください」
言い終わらない内にマティアスが言葉を被せてきた。強い言葉と眼差しがヘルミーナに向けられる。忠誠を誓う騎士のような態度に、ヘルミーナは思わず見惚れてしまった。
慌てて「そ、そうですか! 団長様がそう仰るのでしたらっ」と返したが、彼の真剣な顔がまともに見れなかった。顔を背けるだけでは誤魔化し切れず、ヘルミーナはソファーから立ち上がり、お辞儀をしてから廊下へ出た。
逃げるように出てきてしまったことを後悔するも、自分が勘違いしてしまわないことで頭が一杯だった。
彼が丁寧に接してくれるのは光属性を宿した人物だからであって、本当であれば近づくことも、話すことも、会うことすらなかった人だ。
「ヘルミーナ様?」
「なんでも、ない、です……」
飛び出すように出てきたヘルミーナに、リックが驚いた顔で近づいてきた。誤解を生まないように、何もなかったことを伝えたが上手く伝えられたかどうか心配だ。
ヘルミーナは心を落ち着かせるように深呼吸を繰り返した。油断するとマティアスの整った顔が浮かび上がってくる。そんな場合じゃないのに。
ヘルミーナは余計な気持ちを振り払うように急いでアイリネス宮殿へ戻り、魔法石について書かれた本を見つけては、取り憑かれたようにページを捲った。




