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「──状況はっ!?」
演練場に辿り着くと、人間より二回りは大きな黒毛の狼が口から黒炎を吐いて暴れ回っていた。
本来、魔狼牙は大人の腰ほどの高さで、赤い毛並みをした狼だった。魔物の中でも下級クラスで、素早さはあるものの攻撃力が高くないことから新人の実践訓練で良く使われてきた。だが、突然変異する異端種ともなれば話は別だ。魔物は黒い瘴気に染まっている奴ほど強い。黒毛の魔狼牙はまさに上級クラスだ。到底、新人騎士の敵う相手ではなかった。
「三体の魔狼牙の内、二体は倒しました! ですが、一体だけいきなり巨大化して!」
「やはり異端種か!」
今日に限って総長と各団長は会議に出席している。リックに命じていたおかげで待機していた第三、第四騎士団の副団長がすぐに駆けつけ、被害を食い止めてくれたようだ。そこへカイザーも加わったことで形勢が逆転するかと思ったが、厳しい状況は変わらなかった。
「異端種一体なら我々だけでも倒せるんだがな!」
副団長二人なら覚醒した魔狼牙一体ぐらい問題なく倒せただろう。だが、彼らは魔狼牙から距離を取り、様子を窺いながら戦っていた。正確には攻撃を防ぐだけに留まっていたのだ。
その時、背後から「いやぁ、パウローっ!」と泣き叫ぶ女性の声が聞こえてきた。反射的に振り返ると、そこには他の女性騎士に引き止められながら必死でこちらへ来ようとする女性騎士の姿があった。レナだ。
「くそ……っ、パウロが新人騎士を庇って、敵の足元で倒れたままになってる!」
「馬鹿な!? 魔狼牙が人質を取っているとでも言うのか!」
上級クラスの魔物になってくると知能が備わり、更に最上位種の魔物になってくると人族の言語を理解し、話せる者もいると聞く。幸いそこまでの魔物に出会ったことはないが、遭遇していれば無事では済まないだろう。カイザーは舌打ちし、一箇所をぐるぐる回りながら火を吐いて牽制してくる魔狼牙に剣を抜いた。
「彼をあのままにはできない、魔狼牙は私が引き付ける! その隙にパウロの救出を頼む!」
「承知しました!」
指示を飛ばすと、彼らはカイザーに従ってすぐに動いた。所属は違っても実力主義の騎士団では、どんな状況であれ強い者に従うことになっている。そして、騎士団の中で総長のレイブロン公爵、第一騎士団の団長マティアスに次いで強いのはカイザーだった。覚醒した魔狼牙を今一人で相手出来るのはカイザーしかいなかった。
カイザーは手にした剣に炎を纏わせ、魔狼牙に向かって正面から斬り掛かった。魔狼牙は不気味な唸り声を上げ、前足の鋭い爪で反撃してきた。その傍らには確かに人が倒れていた。全身真っ黒に焼け焦げて、生きているのかどうかも分からない。
ただ、パウロは優秀な騎士だった。平民とは思えない魔力を持っていて、一時は第一騎士団の騎士まで登り詰めた男だ。しかし、決闘によって第一騎士団から降ろされると、彼は他の騎士団には所属せず、新人騎士を指導する育成部隊に移った。
新人の中には、平民であるパウロを軽く見る者もいたが、元より最強の騎士団にいた実力者だ。三ヶ月も過ぎれば、パウロを見下していた新人は彼に従うようになっていた。
そんなパウロにも幸せが訪れ、半年前に同じ平民騎士のレナと結婚した。騎士団でも二人の門出を祝福し、明け方まで飲んで踊って騒いだ。あの時の二人の幸せそうな顔は、今でも目に焼き付いている。
「パウロのことだ、攻撃を受けても身を守っているはずだ……っ」
後ろの方でパウロの名前を叫び続けるレナの声が響いている。ぐずぐずしている暇はない。カイザーは剣身が耐えられるギリギリまで魔力を流し込んだ。すると、剣を包んでいた炎は更に勢いを増し、その場が急に静まり返った。
暴れていた魔狼牙がカイザーの魔力に気づき、標的を見定めるように唸るのを止めたのだ。だが、魔狼牙が人質を忘れ、カイザーに気を取られた時点で勝負はついていた。
視界の中でパウロを救い出す仲間の姿を確認すると、カイザーは剣を構えた。
「敵地のど真ん中で覚醒してしまったことを後悔するといい」
魔狼牙は再び唸りだし、カイザー目掛けて黒炎を吐き出してきた。だが、襲い掛かってくる黒炎の延長線上にカイザーの姿はもうなかった。
カイザーはグリップを握り締め、魔狼牙の吐き出す黒炎の下をすり抜け、前足二本を切断した。魔狼牙は激しく暴れながら前に倒れた。刹那、地を蹴ったカイザーはそのまま魔狼牙の首を目掛け、炎の剣を振り下ろした。ズパンッと音が聞こえるほど、カイザーは綺麗に魔狼牙の首を切り落としていた。
首と胴体を切り離された魔狼牙は黒い煙に包まれ、最後には骨も残らず塵となって消滅した。
魔狼牙を倒したカイザーはすぐにパウロの元へ駆けつけた。
「辛うじて息はあります! 魔力を巡らせ心臓を守ったのでしょう」
「分かった、パウロは私が連れて行く! 他の者は怪我人の介抱と、今いる魔物に異常がないか確認してくれ!」
生きているパウロに胸が熱くなる。だが、一刻を争う事態は変わらない。カイザーは魔狼牙の黒炎を浴びて真っ黒になったパウロを抱き上げた。途中、レナの横を通り過ぎると、愛する夫の変わり果てた姿に悲鳴を上げた。
絶望的な状態だと、カイザーも分かっていた。けれど、まだ必死で生きようとしているパウロを、こちらが勝手に諦めるわけにはいかない。
パウロを抱えたまま医者のいる病室へ急ぐと、怪我人で溢れているはずの廊下や病室はなぜか歓声に包まれていた。しかし今は、他のことに気を取られている場合ではなかった。カイザーが「道を開けてくれ!」と言えば、騎士達がすぐに道の端に寄ってくれた。後ろからついてきたレナの泣き叫ぶ声が、続くように響き渡る。
「先生、患者だ! 急いで診てほしいっ!」
病室に入った瞬間、カイザーは我が目を疑った。重症患者がいるはずの病室には、患者らしい患者の姿はなかった。何が──視線を走らせるより先に、そこへ一人の少女が声を上げていた。
「──カイザー様! 怪我人をこちらにお願いしますっ!」
「ヘルミーナ嬢、なぜここにっ!?」
そこにいたのはヘルミーナだった。彼女は綺麗だったドレスや手を血だらけにして、騎士団の病室に立っていた。
なぜ君がここにいる。
どうしてこのような場所にいる。
訊きたいことは色々あったが、パウロを助けることが先だと言葉を呑み込んだ。カイザーはヘルミーナが用意してくれたベッドにパウロを寝かせた。
すると、ヘルミーナは自ら治療すると言った。そんなことすれば彼女は、能力を隠して生きていくことは出来なくなる。出来ることなら、ヘルミーナには貴族令嬢らしく平和な場所で守られながら生きていてほしかった。
でも一方で、優しい彼女は目の前で救いを必要としている人がいれば、きっと助けるだろうと思っていた。だからルドルフも、ヘルミーナに「契示の書」を使わなかったのだ。光の神エルネスから祝福を受け、人々を助けようとする彼女を魔法契約で縛るわけにはいかないだろう。
神聖魔法を惜しみなく発揮するヘルミーナは美しかった。
彼女の体が光の蔦に包み込まれ、その神秘に息をするのも忘れていた。その時、ふと浮かんできたのは王国に語り継がれてきた聖女の物語だ。聖女と共にいた者達も同じ光景に魅せられたのだろうか。
水が弾けて光の力が弱まると、同時に瀕死の状態だったパウロが飛び起きた。黒く爛れていた皮膚はなくなり、傷口は塞がって見事に完治していた。
その場にいる全員が、ヘルミーナの起こした奇跡に息を呑んでいた。
──夢でも見ているような気分だ。
王国が誇る騎士達が、救われた仲間に心を打たれて動けなくなるなんて初めてのことだった……。




