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傷の完治は驚くべきものだった。
王国にも癒やし手となる神官は存在する。光の神エルネスを崇める教会の神官が、特別な力を使って病気や怪我を治していた。しかし、治癒は完璧ではない上に莫大な寄付金が必要となる。
年に数人だけ、選ばれた平民にも恩恵を与えているようだが、その殆どが軽症の患者だ。そのため王国を守る騎士でも、教会の施す癒やしの力に頼ることができなかったのである。
ヘルミーナは「治って良かったです!」と喜んでいたが、彼女は自分がどれほど凄いことをやって見せたのか正しく理解していないだろう。目の傷だけでも治ればと思ったのに、まさか全て完治してしまうとは。提示した報酬では足りないぐらいだ。
片目を抉られた痛みは今も忘れていない。ただ、そうなってしまったことに悔いはなかった。守るべき人を守ったのだから。その後に、隻眼の騎士に何ができると陰口を叩かれようが、社交界で怯えられようが、騎士としての誇りを失ったことはなかった。
だが、守った人がこの目を見るたびに心を痛めるのだ。それがずっと心に引っ掛かっていた。もう、二十年も前の話だ。
最初は不便を感じていた生活にも慣れ、爵位を継いで公爵になり、一族の長と騎士団の総長になってからは余計な声も耳に入ってこなくなった。
だから、忘れてしまっていたのかもしれない。両目で見える景色の広さを。二度と治らないと思っていただけに、心から湧き上がってくる気持ちを何と表せば良いのか。感動して視界が滲みそうになった。
その時、部屋の扉がノックされ、リックが対応に当たった。
どうやら退団する女性騎士がヘルミーナを迎えに来たようだ。呼ばれたヘルミーナは素早く立ち上がり、挨拶してから出ていった。護衛にはマティアスが付いていく。カイザーも行きたそうにしていたが、マティアスに言われたことを引きずっているのかもしれない。
自分の息子とうまくいけばヘルミーナを囲む必要はなくなるが、彼女の負った心の傷を考えると無理強いはできない。それはどんな魔法でも治すことは難しいだろう。
一族を束ねる自分がたった一人の令嬢を気遣うなど、すっかり絆されてしまっているな、と苦笑しつつ、今回ばかりは余計な手は回さないほうが良いと踏んだ。いずれ彼女の後ろ盾となる相手のことを考えると、周囲の動向を見てからでも遅くはない。
それに今は、新たに浮上してきた問題を早急に解決する必要がある。
「騎士全員分の「契示の書」か……。さて、どこから調達してくるか」
★ ★
──彼女にはいつも驚かされる。その度に、心が掻き乱されてどうしようもなくなる。
カイザーは、迎えに来た女性騎士に呼ばれ、マティアスと共に出ていくヘルミーナを見送った。
マティアスの言う通りだった。自分は優先すべき任務を怠っていた。
一時でもヘルミーナの傍から離れるべきではなかった。恐怖に震える彼女を部屋に残し、残酷な光景を目の当たりにしながら騎士の治療に当たらせてしまったのは自分の責任だ。
それなのにヘルミーナは咎めるどころか、お礼を言って笑ってくれた。カイザーは己の不甲斐なさに、改めて拳を握り締めた。
ヘルミーナが婚約者から暴行されそうになったと聞かされた時、怒りで我を忘れそうになった。彼女が社交界から受けている酷い仕打ちは全てその婚約者によるものだった。それなのに、ヘルミーナを孤立させるだけでは飽き足らず、無理矢理我がものにしようとした婚約者が許せなかった。一刻も早く保護して、最も安全な場所に連れてきたかった。
ヘルミーナが王宮行きを承諾してくれた時は、正直安心した。本当はすぐにでも連れて行きたかったのだが、彼女の希望で三日後の迎えになった。
その三日間がどれほど長く感じたことか。例の婚約者がまたやって来て、ヘルミーナが危険な目に遭っているんじゃないか。気が気じゃなくて、仕事も手につかなかった。
しかし、「鍛え直してほしい」と指導を申し出てきたランスに、お互い本気で打ち合った結果、彼の腕を折ってしまったときは我に返った。口では言わないものの、ランスこそヘルミーナの護衛から外されて悔やんでいたのに。もっと心を鍛える必要があると深く反省した。
長く感じた三日が過ぎると、カイザーは再びヘルミーナの元へ訪れた。
彼女は数日前よりずっと輝いて見えた。背中を流れる水色の髪や、陶器のように白い肌も。顔は疲れて見えたが、騎士団の外套を羽織らせた時の彼女は、子供みたいに目を輝かせてきた。
馬車の中では、こちらの緊張が伝わらないように、時間を掛けて丁寧に今後の予定を話した。なのに、王宮の裏門で門衛と話していたのを見ていたのだろう、ヘルミーナに「多くの者に慕われているのですね」と言われて魔力のコントロールを失ってしまった。子供だってうまく制御できるのに、不覚だ。
それからヘルミーナを騎士団の宿舎に案内し、お茶を出した。自分の職場に彼女がいるのはとても不思議な感じだ。外套のフードを脱いで前髪を直す仕草が可愛らしく、つい見惚れてしまった。
今度は、手の届く場所でヘルミーナを守れる。
──そう思っていた矢先に、事件は起きた。
演練場で魔物が暴走していると報告を受け、カイザーの嫌な予感は当たってしまった。
魔物と聞いて酷く怯えたヘルミーナに、魔物に対してあれほどの苛立ちを覚えたことはない。護衛を外れるのは忍びなかったが、早く仕留めて安心させたかった。カイザーはヘルミーナの護衛をリックに託し、彼女の傍から離れた。
宿舎の建物から演練場に続く渡り廊下を過ぎた辺りから、被害の大きさが伝わってきた。怪我を負いながらも動ける者は動けない者を担いで逃れてきている。その殆どが若い新人の騎士だった。
被害が拡大する前に何とかしなければ、また仲間を失うことになる。カイザーは走る足に力を込めた。




