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「こりゃあ医者の俺はクビか?」
齢四十五になるロベルト・ベーメは、土属性の一族を束ねたラスカーナ公爵より男爵を叙爵された医者だ。元はとある子爵家の三男だった。
彼は幼い頃から、病気や怪我を魔法で治してしまう伝説の聖女に憧れていた。聖女の物語が書かれた書物は勿論、様々な文献を読み漁り、いつしか聖女に近い存在になりたいと思うようになっていた。
その答えが医学の道を極めることだった。神聖魔法は使えないが、どんな病気や怪我も治す王国一の医者を目指すことが、ロベルトの選んだ道だった。
若くして医者となったロベルトはいくつかの病院を渡り歩き、慢心することなく己の腕を磨いていくと、次第に彼の名前が知れ渡るようになった。そして一族の長から男爵の爵位を授かると、多くの病院から誘いの声が掛けられるようになった。一生暮らせるほどの大金を用意されたこともある。
しかし、ロベルトが選択したのは、身分に関係なく実力主義を掲げる騎士団の専属医だった。
彼は、魔物を倒すほどの魔力は持っていなかったが、聖女のように魔物を討伐する騎士の手助けをしたかったのだ。そして毎日、毎日、多くの怪我人を見てきた。同時に、多くの命も見送ってきた。
もし、自分にも神聖魔法が使えたら、もっと沢山の命を救えただろう。時には自暴自棄になることもあった。それでも、彼をここまで支えてきたのは、小さい頃から目標としてきた聖女だった。
ロベルトは空になった青い瓶を持ち上げると、中を覗き込んだ。
どうして彼女が、わざわざ中身の見えない青い瓶に魔法水を入れてきたのか分かった気がする。
その彼女は今、眼帯をした大柄の騎士に「話がしたい」と言われて、ビクビクと怯えていた。見れば見るほど、ごく普通の貴族令嬢だ。彼女の一体どこにあのような力があるのか。
──だが、自分の目は疑いたくない。
あれは紛れもなく本物の神聖魔法だった。夢にまで見た聖女と同じ魔力を持った少女が現れたのだ。すると、少女は自身が持ってきたバッグを取りに来ると、ロベルトと目が合った。
「あの、先生……」
「……ああ、この空瓶か」
ヘルミーナと呼ばれていた少女は、ロベルトに近づいてくると空のように澄み切った瞳で見つめてきた。
てっきり空になった瓶を取りに来たのだと思った。けれど、ヘルミーナはロベルトの前にやって来ると、彼に向かって深々と頭を下げてきた。
「先生、この度はありがとうございます。先生の患者に向き合う気迫と勇敢なお姿を拝見しなければ、私は怖くて動けなかったでしょう。また私のような者が先生の仕事場を荒らしてしまい、申し訳ありませんでした。……それから、瓶の中身を信じて使っていただき本当にありがとうございました」
先生がいなければ患者は救えなかった、と。
光属性の神聖魔法が使えるなら、ヘルミーナの存在は王族よりも貴重だ。彼女が選ぶ道によって、簡単に頭を下げることもなくなるだろう。そのヘルミーナに感謝と謝罪に加え、立派だと褒められてロベルトは白髪が交ざった茶色の髪をがしがしと掻いた。
本来ならそれらの言葉は自分が言わなければいけなかったのに、ヘルミーナに全て先を越されてしまった。どこまでも眩しく輝く少女だ。
「……まいったなぁ」
大抵の事には動じなくなったと自負していたのに、この歳になっても他人の言葉に照れてしまう日が訪れるとは。人生はまだまだ何が起こるか分からない。
ロベルトはこの後も騎士団の専属医として活躍することになる。そして、暫くしてから騎士団の病室を頻繁に出入りすることになるヘルミーナの、良き相談相手になるのだった。
★ ★
「こちらにお掛け下さい」
最初に通された応接室とは違い、案内されたのは執務室だった。正面の大きな机にはいくつかの書類が山積みになっており、手前には応接室と大差のない豪華なテーブルとソファーが並んでいる。部屋の主は考えるまでもない。
ヘルミーナはマティアスにエスコートされ、三人掛けのソファーに腰を下ろした。余談だが、男性からエスコートを受ける時は剣や銃を抜く時の邪魔にならないよう、男性の利き手となる右側に立つことが一般的だが、右側に帯刀するマティアスを見て彼が左利きであることが分かった。
そのマティアスの手に触れた瞬間、体を流れる魔力が反応した。力が漲ってくるような不思議な感覚は、指先が離れるまで続いた。
「ヘルミーナ様、こちら濡れたタオルです。宜しければお使い下さい」
「ヘルミーナ嬢、お茶をどうぞ」
座ってからすぐに離れてくれたマティアスとカイザーにホッとしたのも束の間、タオルとお茶を持って舞い戻ってきた彼らにヘルミーナは困惑した。
家柄も立場も彼らの方が遥かに上だ。本来なら、二人に近づくことすら出来なかっただろう。
──だから、どちらも床に跪くのはやめてほしい。行き過ぎた気遣いも。他の令嬢に見られたら何と言われるだろう。考えるだけで胃がきゅーっと締め付けられて穴が開きそうだ。
そこへ、戸惑うヘルミーナを見兼ねたのか、それとも部下の行動に呆れたのか、目の前に座った部屋の主が口を挟んできた。
「あー……お前達邪魔だ、邪魔。お嬢さんに嫌われたくなかったら離れていろ」
眼帯の騎士はまるで動物を追い払うように片手を振った。
しかし、救いだと思ったそれは、ヘルミーナにも大きなダメージを与えた。
「……邪魔、ですか?」
「ヘルミーナ嬢に、嫌われる……?」
「決してそんなことはっ! でも、あの……自分で出来ますから……」
二人は先程まで輝いていた顔を曇らせ、なぜか酷く落ち込んでしまった。耳と尻尾が生えていたら間違いなく垂れ下がっていただろう。想像してしまったヘルミーナは慌てて首を振った。今度は胃ではなく胸が苦しくなった。
結局、マティアスとカイザーは渋々ヘルミーナから離れ、眼帯の騎士の後ろに控えた。そこにはリックとランスも控えている。つまり、五人の男性陣から見られる形になり、嫌でも背筋が伸びてしまった。
「さて、お嬢さん。まずは騎士の命を助けてくれて感謝する。私は騎士団総長のアルバン・フォン・レイブロンだ」
「ご機嫌麗しく、レイブロン公爵様……ご挨拶が遅れて」
「ああ、座ったままでいい。寧ろ頭を下げなきゃいけないのはこちらの方だ」
火属性を束ねるレイブロン一族──その長であるレイブロン公爵に、ヘルミーナは立ち上がって挨拶をしようとした。けれど、レイブロン公爵に止められて、頭を下げるだけに留まった。
やはり親子だけあってレイブロン公爵とカイザーは良く似ていた。団服の上からでも分かる鍛えられた肉体、赤髪と橙色の瞳がそっくりだ。最初はレイブロン公爵の堂々した風格に怯えていたが、自分に向けられた目はランプに灯る火のように穏やかだった。おかげで、余計な緊張が解けた。
「まず、名前を教えてもらっても良いか?」
「テイト伯爵家の長女、ヘルミーナ・テイトです」
「ウォルバートのところだな。実のところ、お嬢さんのことは王太子殿下から聞いている。──光属性を宿したご令嬢だと」
レイブロン公爵は落ち着いたヘルミーナを見ると、身を乗り出すように体を前に倒してきた。
騎士を護衛につけてもらった時から、騎士団の統括者であるレイブロン公爵が知らないわけがないと思っていた。それに、ヘルミーナの力が初めて証明された場所はレイブロン公爵邸なのだ。不思議な巡り合わせではあったが、ヘルミーナは誤魔化すことなく「はい」と答えた。
すると、レイブロン公爵は頷き、厳しい顔で腕を組んだ。
「魔物を訓練に使うことは許可されているとは言え、王族も暮らす王宮内に連れ込むのを良く思っていない者もいる。今回の出来事で私を含め、多くの幹部が責任を取らされていたかもしれない」
「ですが、騎士団の方々は私達や王国のために戦ってくださっています」
「お嬢さんのようにそう思ってくれる人もいるが、騎士団を優遇し過ぎていると声が上がっているのも確かだ。それでも、我々はたった一人の騎士でも失えば大きな損害だと考えている。だから、そうならないために魔物を使った実践訓練をしてきた」
騎士団の内情を説明してくるレイブロン公爵の表情は硬かった。
彼の片目だけに浮かぶ光景は、ヘルミーナが今日見てきた惨状とは比べものにならないはずだ。
騎士は皆レイブロン公爵の大事な部下なのだ。一人も失いたくないと言ってきたのは、彼の本心だろう。目の前で誰かに死なれるのが怖いと吐き出したヘルミーナとは、言葉の重みが違った。
けれど、レイブロン公爵は突然自分の膝に手を乗せると、ヘルミーナに向かって頭を下げてきた。
「──ヘルミーナ嬢、此度は我が騎士団を救ってくれてありがとう。魔物の暴走はあったが、君のおかげで怪我を負った者は一人もいなかったと報告が出来る。何より誰も失わずに済んだ! 重ねて感謝する」
レイブロン公爵が噛み締めながら感謝を伝えてくると、後ろに控えていた四人も同じく頭を下げてきた。
……そうだ、彼らは大切な仲間を失わずに済んだのだ。
頭を下げてまでお礼を言ってくる彼らに慌てたものの、しかし、そこには感謝以外の気持ちも含まれていることに気づいて、ヘルミーナは汚れたドレスを握り締めた。
「皆さんのお役に立てて良かったです……」
これまで多くの仲間を失ってきた悲しみと、呑み込むしかなかった無念さが痛いほど伝わってきて、そう返すのが精一杯だった。




