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21-3

 翌日、朝から老人を訪ねた。午前中の外回りはサボることになってしまうけれど、馬に会えるとなると、うきうきだ。でも、目的地を訪れてみると、あれ? と思った。二頭いるはずの内の一頭、芦毛のおてんばさんの姿が見えない。


 老人がうまやから飛び出してきた。


「そうか。早速来たのか」

「来てしまいました。それで、白いお馬さんがいないようですけれど……」

「逃げたんだ」

「逃げた?」

「ああ。ブラッシングをしてやろうと表に出してやった途端、手綱を強引に引っ張って逃げ出した」

「追うんですか?」

「勿論だ。ウチの馬だからな」

「ご一緒させていただいてもいいですか?」

「どうしてだ? どうしてついてこようとする?」

「心配だからです」

「心配されるいわれなどないんだが」

「それでも連れていってください。お願いします」

「本当に、変わったお嬢さんがいたもんだ」


 老人は一旦、厩に引っ込んだ。ややあってから、大きな鞍を持ち出してきた。二人乗りのものだろうか。大人しくしている鹿毛の馬にそれをのせ、腹帯をしめた。飛び乗るようにして跨った。


「後ろに乗りなさい」

「いいんですか?」

「いいと言っている。乗りなさい」

「はいっ」


 わたしが老人の腹に両手を回すなり、彼は鹿毛の馬を道路に出した。すると馬は勢い良く駆け出した。コンクリートの地面を走る、走る。前へ前へと突き進む。その一途な様子が美しいと感じた。ずっと乗っていたいと思うほどに。


 計三十分程を要してやがて『郊外の丘』と呼ばれる一帯に入った。幾度か訪れたことがある。金持ちばかりが住まう土地だ。けれど、邸宅がまるで建っていない広大な空き地があって、そこは小高い丘になっていた。そんな場所があることを初めて知った。世の中、わたしの知らないことはまだまだあるらしい。


 わたしと老人を乗せた馬が、なだらかな丘を駆け上がる。


 そのてっぺんで、白いおてんばさんはばったりと横たわっていた。老人が下馬し、わたしも続いた。ちょっとお尻が痛い。馬を上手に乗りこなすにはそれなりの訓練が必要なのだろうと思い知る。


 白馬のそばで老人が膝を折った。わたしも隣に屈み込んだ。白いおてんばさんは息も絶え絶えである。そんな彼女の首筋を、彼は撫でた。


「そうか。やはりおまえはここに来たかったのか……」

「どういうことなんですか?」

「金持ちばかりが住む土地柄にあって、こんなひらけた丘が存在する。おかしなことだとは思わんか?」

「確かに、妙だと思いますけれど……」

「この丘は水はけが悪くてな。だからあえて、誰もここに家を構えようとはせなんだ。だが、雨さえ降らなければ、地面はパンパンだ、馬を走らせるにはちょうどいい。ウチのばあさんは、誰のものでもないこの土地で馬を駆ることが好きだった。わしもよく連れ出されたものだ」

「思い出の場所なんですね……」

「このおてんばからしてもそうなんだろう。ばあさんと一緒にいることが楽しかった。ばあさんとここを駆けるのが好きだった。だから、最期をここで迎えたかった」

「最期?」

「見たらわかるだろう? このおてんばさんは寿命だ。もう死ぬ。自分自身でそれがわかったからこそ、ここまで駆けたんだ。一所懸命に」


 わたしはおてんばさんの首を撫でた。確かに息はもう絶え絶えで、死を予感させた。


「頑張ったね。最期まで、よく生きたね……」

「ばあさんもそうだった。よく頑張った。癌があちこちに転移して、疼痛がひどかっただろうに、最期まで、笑っておった」

「おじいさんに、貴方に最期を看取っていただけたわけですから、奥様は幸せだったと思います」

「知ったふうな口を聞くんだな」

「ごめんなさい」

「いや、かまわんさ」


 おてんばさんの鼻面を撫でる。息はやはり、ヒューヒューと頼りない。一度細かく震えたかと思うと、ふーっと深い息をついて死んでしまった。安らかな死に様であり、また安らかな死に顔だった。


「残りは一頭か」

「新しい馬を飼うつもりはないんですか?」

「それはそうだ。わしのほうが先に逝ってしまうだろうからな」

「おじいさんの価値観はとても美しいです」

「そうか?」

「はい。わたしはそう考えます」


 丘に風がひゅーと吹いて、亡くなってしまったおてんばさんの真っ白なたてがみを柔らかく揺らした。


 そうしまいと決めていたのだけれど、わたしはやっぱり少し泣きそうになってしまい、だから涙がこぼれないよう上を向いた。


 視線の先には抜けるような青空が広がっていた。


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