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8-3

 アンティークな建物の三ツ星ホテル、その最上階にて。


 ちょっと遅めの夕食をとろうと思った次第である。高級なレストランで女性一人が食事をするのは少々寂しいことであるかもしれないけれど、わたしは周りの目なんて気にすることなくフルコースをたいらげた。いずれの料理も少量であることを不満に思った。食欲は旺盛なほうだ。むしょうに地元のラーメンが食べたくなったので、明日は寄ろうと考える。


 客室に戻ったところで、早速、ドレスを脱いだ。窓からカジノ街を見下ろす。まだまだ明るくネオンが照っていて、景観はグッド。中々に素敵な夜景だ。


 窓には裸のわたしが映っている。左の頬の傷は今夜も露わだ。そっとそれに触れてみる。縫い傷特有のつるつるとした感触がある。これがあってこそのわたしだなと改めて思う。この傷があるからこそ、強くなれた。この傷があるからこそ、大人にもなれた。だからといって、手を下してくれた人物をゆるすつもりはない。くだんの男がいつか目の前に姿を現すようなことがあれば、容赦なくとっちめてやるだろう。



 いつも寝床に使っているソファとは違うせいか、夜中の三時頃に目が覚めた。部屋の隅に置かれた小さな棚からウイスキーのポケットボトルを取り出す。琥珀色の液体で口元を濡らし、熱くなった胸元を思わず指で掻きむしる。


 と、その時だった。


 ジリリリリというけたたましい警報音が耳に届いた。それからまもなく、「お客様はすぐに部屋から出て、係員の避難誘導に従ってください!」などというアナウンスが流れた。それは二度、三度と繰り返し伝えらえた。黒いショーツ一枚だったわたしは、小さなボストンバッグから取り出したブラジャーを着け、ジーパンをはき、ブラウスに袖を通した。ボルサリーノはない。ドレスルックが前提だったので今回は持参しなかった。やっぱりアレがないと画竜点睛を欠くなあと思う。


 ドレスを押し込んだバッグを手に通路に出ると、薄く煙が立ち込めていた。火事らしい。スプリンクラーは機能していないようだ。こんな老舗ホテルにあってはならないことだけれど、点検を怠っていた? それとも故障?


 何故だか腐った肉が焼かれているような嫌なにおいがする。階段があるほうへと赤絨毯の上を進む。その途中に男が一人、立っていた。白いバスローブを着ていて、仁王立ちの格好である。それは先だってカジノでからかってやった甘えん坊の男だった。


 異臭の出所は彼の部屋であるらしい。白く濁った煙もだんだんとその密度を増してくる。相手なんてせずに擦れ違ってやっても良かったのだけれど、一応、わたしは彼の前で足を止めてやった。


「貴女もこのホテルに宿泊されていたんですね」

「ええ。で、この煙とにおいは? 部屋でグリルパーティーでもやっているのかしら」

「純度の高いアルコールは良く燃えるようです」

「何をやったわけ?」

「婚約者を殺しました。扼殺です。そのあと、死体に火をつけました」

「どうして、そんな真似を?」

「カジノで言ったじゃありませんか。政略結婚だ、って。僕は彼女のことを愛してなんていないんだ、って」

「殺すだけの覚悟があるなら、ひとこと、嫌だと言えば良かったのよ」

「嫌だと言っても、きっと何も変わらなかった」

「まあ、どの道、貴方はブタバコ行き」

「そうなるつもりはありません」

「何をしようと言うの?」

「今、この瞬間、僕達が会えたことについて、貴女はどうお考えになられますか?」

「単なる偶然よ」

「いや。僕は運命だと思う」

「だったとして、どうしようというの?」

「貴女の胸に爪痕を残したい。僕が生きた証を刻み付けたい」


 男は微笑みを浮かべると、白い煙と異臭を放つ部屋へと入った。わたしは、あとを追う。広いベッドルームがあり、その真ん中でヒトがうつぶせに倒れているのが見えた。長い髪が床に垂れていることから女性だろうくらいの判別はつく。


 漂う悪臭にむせることもなく、立ち上る煙に咳き込むこともせずに死体のそばに立つと、男はボトルを両手に持ち、頭からウイスキーを浴びた。途端、体に火が燃え移った。燃え盛る炎に包まれながらも、彼はやはり微笑している。


「次、またニンゲンに生まれ変わるようなことがあれば、貴女の魂と惹かれ合うことを信じて……」


 そう言うと、男は前のめりに、どっと倒れた。


 すぐに適切な処置を施せば、命を助けることはできたかもしれない。だけど、わたしはそうしようとは思わなかった。自分本位な考え方には幼稚さしか感じ得ないし、親の気を引きたがる子供のような物言いにも興醒めしてしまった。


 だからとっとと身を翻し、通路を走り、階段を駆け下りた。


 心底、思った。

 媚びる男は最低だな、って。


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