43.『それから……』
一年が過ぎた。
わたしはきちんと生きている。
わたしなりに前を向いて生きている。
二度寝したのち、寝惚けまなこを擦りながら、ソファから起き上がった。頭が痛い。二日酔いだ。昨夜は随分とフェイ先生に付き合ったし、付き合ってもらった。彼女はよく笑ったし、わたしもよく笑った。ナンパしてきた男がしつこかったので、外で蹴り倒してやって、また飲んだ。本当によく笑い合った。
焼けたトーストを口にくわえ、コーヒーを持ってデスクについた。新聞を広げ、やっぱり最初に見るのは番組欄。いつも夕方にやる好きなアニメ、うん、今日も載っている。
続いて、世間のニュースをチェックする。今後、経済状況の悪化が懸念されるだとか、議員の汚職問題だとか、そんなどうでもいい記事ばかり。畳んだ新聞をデスクに置いたところで、くしゃみが出た。どこぞの男達が極上の女であるわたしの噂話に花を咲かせているのだろう。
ジム通いは続けている。ストイックに体重を少し落としたせいか、パンチもキックも鋭くなった。スパーリングでわたしをぎゃふんと言わせられる男は皆無。むしろ、いよいよ相手がいなくなってしまった。リミットである、たった五分間も、もってくれないのだ。三分もあれば倒せてしまう。師匠のニウ老人は、ことあるごとに「おまえはわしの自慢じゃよ」と褒めてくれるのだけれど、軟弱者の男子ばかりなのは嘆かわしい限りだ。
水泳を始めた。最初はビート版で二十五メートルを泳ぐのがやっとだった。でも、今はクロールで八百メートルはいける。体に乳酸がたまった感覚を味わえるのがたまらない。
運動のあとは、麻婆豆腐とプロテイン。最悪の組み合わせだとヒトは言う。だけど、わたし自身は、それが健康の秘訣だと考えている。プラシーボ効果も多分にあるような気がするけれど、それはそれで重要なことだ。ニンゲン、大切なのは自己啓発と思い込み。
ミン刑事との関係は勿論、良好だ。たびたび仕事を寄越してくれる。その際は決まって、「働け、メイヤ」と付け足す。以前より、わたしに対する当たりが強くなったのだ。やっと大人として見てもらえるようになったかと嬉しく感じている。なんだか感慨深くもある。だけど、まだ子供扱いされている部分もある。例えば、ちょっと怪我をしたと言ったら飛んでくるし、こないだなんかは自宅に招かれ誕生日パーティを開いてもらった。やっぱり彼はいつまで経ってもお父さんなんだろうなと強く感じた次第である。
界隈で一番金のかかる殺し屋、ミス・ラオファとも仲良しだ。相当、縁があるらしく、夜道でちょくちょく出くわすのだ。こちらとしては「まいった」と言わせることが出来ればそれで充分なのだけれど、向こうはきっちり殺すつもりで突っ掛かってきてくれる。ありがたい話だ。報酬抜きで殺りたいと考えるようになってくれたらしい。おかげで、それなりにエキサイティングな日々を送れている。次こそは次こそはと思っていつも挑戦したり受けて立ったりしているけれど、彼女にはいつまでもいいライバルでいて欲しい。少なくとも、わたし以外のニンゲンにはやられて欲しくない。
いいことばかりではないけれど、悪いことばかりでもない。ま、人生、そういうものなのだろう。現状には結構、満足しているし、そんなふうにポジティヴに思考できる自分のことが、わたしは嫌いじゃない。やることはある。やりたいことはもっとある。出来ることだって、きっとたくさんある。
皿とカップをキッチンで洗い上げたところで、部屋着から仕事着に着替える。外回りの準備。タイトなブルージーンズをはき、真っ白なブラウスを着て、ポールハンガーに引っ掛けてあるカーキ色のジャケットを羽織る。今日もばっちりメイヤさんをやってやろうと思う。強きは挫き、弱きは救う。そのモットーは、なあんにも変わっていない。この先も変わることなんてあり得ない。
洗面所で歯を磨き、歯ブラシをコップに放り込む。
鏡と向き合う。見慣れてはいるものの、いつ見ても綺麗な顔だなあと内心で自画自賛。
頬にある大きな縫い傷は一生消えない。消えないけれど、やっぱりこの傷こそ、わたしの最大のアイデンティティ。
両のほおを両手でパンパンと叩いて気合いを入れる。
「それじゃあマオさん、今日も行ってきますね!」
鏡の中のわたしが、眩しいまでに笑った。




