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ミン刑事が事務所を訪れたので、ソファに促し、コーヒーを振る舞った。わたしは向かいに座ったのだけれど、マオさんは話に加わるつもりはないようだ。現状、『マオ探偵事務所』ではなく、『ガブリエルソン探偵事務所』だからだろう。
今日も今日とてマオさんはデスクについて朝刊に目を通している。何か情報を集めるために読んでいるのかもしれないけれど、単に暇を潰しているだけなのかもしれない。
「メイヤ。おまえのご主人様は、相変わらず不真面目みてーだな」
ミン刑事にそう言われると、マオさんは新聞を広げたまま、「それは誤解です」と言った。「現在における事務所の主は彼女ですよ」と言い放った。彼は「私はメイヤ君の察しの良さと勘の良さを買っているんです」とも述べた。「まあ、何かの折にはフォローくらいはしますがね」と締めくくった。
フォローしてくれると聞くと安心する。けれど、彼は”狼”の件だけに注力しているように見えてしょうがない。要するに、彼をほうっておくことはできないのだ。わたしが席をはずしているうちにいなくなってしまったらどうしよう。そんな考えまで頭に浮かぶ。
そういった思いから率直に、「わたしが外に出ている間にいなくなったら嫌ですからね?」と釘を刺した。「わかっているよ」とマオさんは気のない返事をする。だからやっぱり、彼はいつかまたどこかのタイミングで姿を消してしまうような気がしてしまう。その予感は確かなものだ。背中の傷なんてどうでもいいのに、顔の傷すらどうでもいいのに。”狼”に復讐なんてしてもらう必要だってないのに。
ミン刑事は「おまえに話を聞いてもらえない以上、だったら、メイヤに話せばいいのか?」とマオさんに疑問を投げ掛け、だからわたしが「そうしてください」と答えた。
「ユアンっていうクスリの売人を知っているか?」
「ええ。仲良しってわけじゃないですけれど」
「やっこさんが死んだ」
「えっ」
「胡同から路地に入ったところで仕留められたんだよ」
「誰にですか?」
「ルイだ」
「ルイ刑事に?」
「ああ」
「路地で殺すなんて、どうしてそんなことに……」
「ルイは周辺から情報を集めて、ユアンが”蛾”を売っているっていう噂を掴んでいたらしい」
「”蛾”って、あの”蛾”ですか?」
「そうだ。中毒者には黄金の蛾が見えるっていうアレだ」
「”蛾”の話は忘れた頃に降ってきますね」
「ユアンがちんけな売人だってことは、俺も知ってる。だから、”蛾”なんてたいそうなものをさばいていたとは思えないんだが」
「わたしもそう思います。ルイ刑事は何故撃ったんですか?」
「相手が抵抗の素振りを見せたからだと言っている」
「二丁とも撃ってきたんですか?」
「二丁とも? どういうことだ?」
「ユアンは臆病者でした。だから、いつも左右の脇のホルスターに一丁ずつ所持していたんですよ」
「その話はまだ聞いてないな。ルイがユアンを殺した。その一件が刑事課でシェアされたってだけだ」
「鑑識の見立ては?」
「そのあたりのことについてもルイに一任している。ヤツはこれまで充分な働きをしている。事件の捜査、また事件後の処理もこれまで問題なく終えているしな」
「となると」
「なんだ、メイヤ。何か考えがあるのか?」
「あてずっぽうですけど、ないわけじゃありません」
ミン刑事が「メイヤはそんなことを言っているが、おまえにも何か思うところがあったりするのか?」とマオさんに話を振った。
すると、マオさんは新聞から目を離さないまま、「ああ、すみません。まるで何も聞いていませんでした」と答えた。
「触りくらいは聞いとけよ」
「聞きませんよ。私は今、新聞を読むことで忙しい」
「嘘つけ。単に眺めているだけだろうが」
「あてずっぽうでありながらも、メイヤ君にはなんらかの見当がついているらしい。それで充分じゃありませんか」
「なんだよ。聞いてたんじゃねーか」
「といっても、今の私はあくまでも助手ですから。メイヤ君に一緒に動いてくれと言われない限りは、動きません」
「おまえの助手とやらは、あんなことを言ってるぜ?」
「わたしがそれだけ期待されているってことでしょう。ですよね? マオさん」
「以前は感情論ばかりを口にする子供でしかなかった。だけど、今の君はそうじゃないはずだ」
「だ、そうです。ミン刑事」
「わかったよ。まあ実際、メイヤには幾つも事件を解決してもらっているしな。言い方を変えると、マオ、おまえはもう用無しだってことだ」
「そこまでおっしゃいますか」
「実際、メイヤは優秀なんだよ。それで、俺は何をすればいい? 何かしたほうがいいことがあるなら言ってくれ」
「とりあえず、ルイ刑事に取り次いでいただけますか?」
「ルイに? どうしてだ?」
「話を聞かせてもらいたいんです。ユアンは確かに非合法な商売をしている売人です。だからといって、とっとと殺していいということにはならない」
「おまえはルイを疑っているのか?」
「現状、そうとまでは言いませんけれど」
不意にマオさんが、「メイヤ君」と呼び掛けてきた。
「なんですか?」
「君の考えていることは、恐らく正しい」
「そうですか?」
「うん」
ミン刑事が、「なんだよ。マオもルイが怪しいと思ってやがるのか?」と問うた。「だったら、その理由はなんだってんだ?」と続けた。「さあ」と言って、はぐらかしたマオさんである。
「やっぱり、わたしとマオさんは一心同体だということですね」
「おまえがマオ並に達者になったことは知ってる。しかしだな」
「とにかく、まずはルイ刑事に会わせてください。お願いします」
「しょうがねーな。わかったよ」




