33.『Kiss Of Fire』 33-1
目が覚めた。意識が朦朧する中、頭の中を整理。そういえば、ラオファの手によって失神させられたのだと思い出した。不覚だった。それとも、本気を出したところで彼女には敵わなかったのだろうか。そうは考えたくない。わたしには、誰よりも体をいじめ抜いてきたという自負があるのだから。
「う、ううぅ……」
苦しみに満ちたそんなうめき声を発しながら、わたしは顔を上げた。細長いこの一室は白色で統一されている。拷問をするための場所であろうことが窺い知れた。部屋の左手と右手に順繰りに目をやる。男がそれぞれ二人ずつ、壁の前に立っているのが見えた。いずれも黒スーツだ。
今度は正面を向く。十メートルほど先に、白いスーツをまとった男が見えた。にやにやと笑っている。嫌悪感を覚える。友人にはなれなさそうだ。そして、彼の後方にはラオファの姿がある。壁に背を預け、腕を組み、俯き加減。そういえば、明るいところで彼女を見るのは初めてだなあと思う。
現状、わたしはがっちりとした鉄製の椅子に座らされ、後ろ手に拘束されている。手錠をはめられているのがわかった。逃れようと手を動かし、手錠をがしゃがしゃと鳴らすのだけれど意味はなかった。上半身は黒いブラジャーをつけているのみ。多くの肌はさらす羽目になっている。とんだ恥をかかされているようだ。けれど、悔しいとは思わない。わたしが起こしてきた行動の結果なのだと割り切るしかない。
「やれ」
白いスーツの男がそう言った。命令を受けた黒スーツの男が左の頬を殴り付けてきた。重い拳だった。強烈な一撃だった。痛いなあと思いつつ、改めて前を向く。今度は右の頬にパンチを見舞われた。
先にミカミが言った通り、わたしはヤクザを見誤っていたのかもしれない。こちとら女なんだからと思い、性別に甘える格好で、無茶はされないだろうとたかをくくっていたのかもしれない。それでも、辱められようが殴られようがへつらう言葉を発しないのは、そこに意地があるからだ。
黒スーツの男に、首筋にゴツいナイフを突き付けられた。怖い、正直。だけど、「やってみなさいよ」と言う。媚びたくない。強がっていたい。何者にも屈したくない。
そのうち、白いスーツ姿の男が目の前にやってきた。腰を屈め、真正面に立った。
「貴方がサクライさんってわけ?」
「ご名答。そうですよ」
「見た目は立派ね。白いスーツなんか着込んじゃったりして」
「褒め言葉ですか?」
「そんなわけないでしょう?」
「あのですね、メイヤさん。私は何も、貴女を殺したいと思っているわけではないんですよ。ただシノギの邪魔をしてほしくはないというだけであって」
「子供達にクスリをさばいておいて、何がシノギよ」
「もう一度言います。わたしは貴女に邪魔をしてほしくないだけなんです」
「あなた達『虎』が商売をするにあたっては、私の存在なんて取るに足らないものだと思うけれど?」
「貴女は美しい」
「急に何よ」
「私に抱かれてはみませんか?」
「貴方の性奴隷になれってこと?」
「悪くない条件だと思いますが?」
わたしはサクライの顔を目がけて、血反吐を吐き付けてやった。彼は何事もなかったかのように背を正すと、サイドポケットから取り出した紫色のハンカチで頬を拭った。それからわたしの左の頬をパンと張り、右の拳で頬を殴り付けてきた。
「物分かりが悪くていらっしゃる」
「貴方の言うことなんて知るもんですか」
わたしは「ラオファ!」と声を大にした。「こんなところでわたしを終わらせて、貴女はそれでいいの? わたしを殺したいなら正々堂々と戦いなさいよ!」と怒鳴った。
ラオファは微塵も動かない。腕を組み、俯いたままだ。わたしは、「があっ! があぁっ!」と唸りながら、拘束から逃れようとする。それでもやっぱり、手錠をはずすことはおろか、立ち上がることすらできなくて……。
期せずして頬に涙を感じた。こんなところで死ぬのは、嫌だ、嫌だ、嫌だ。わたしはまだ何も手に入れられていない。手にしていないのだから。
「おやおや。ここまで来て泣きを入れるのですか」
サクライは笑った。大笑いした。それから、「もういい。殺せ」と黒服に命じた。鉄砲が額に向けられる。悔しい。だけど、悔しさの中にあっても、どれだけ悔いがあっても、戦う姿勢だけは崩したくない。誰が相手であろうと屈するところなんて見せたくはない。それは決意だ。「殺るなら殺りなさいよ」なんて言ったりもする。とにかく意地を張る。同時に胸も張る。わたしは目を閉じた。
その時だった。
部屋にたった一つだけある出入り口、鉄扉が、コンコンコンとノックされた。誰もがそちらを向く。わたしに銃口を突き付けている男も、サクライも戸のほうを見た。
鉄扉が開く。そこから姿を現したのは……。
意外すぎて声を失った。驚くばかりで声が出なかった。
「やあ、メイヤ君」
うっすらと笑みを浮かべてそう言った彼は、間違いなくマオさんだった。いよいよ涙が溢れた。会えた。また会えた。一生を尽くしても会えなかったかもしれない愛するヒトに、また会えた。会うことができた。なんて嬉しいことだろう。なんて喜ばしいことだろう。なんて素敵なことだろう。もはや、それ以上の言葉は思い浮かばない。気が付けば、わたしは「マオさん!」と叫んでいた。
「大きな声を出さなくても聞こえるよ」
マオさんは相変わらず、ひょうひょうとしている。黒服の強面が四人いようが、ただならぬ気配を発しているラオファがいようが、悪の雰囲気を醸し出しているサクライがいようが、まるで臆した様子がない。意に介していないように映る。数なんて問題じゃない。そんなふうにとらえているように見えた。
彼は言ってくれた。「私の身内をよくもまあ、ここまで痛め付けてくれましたね」と言ってくれた。「少し頭に来ていますよ」とも言ってくれた。
マオさんは、さっさと動いた。わたしに銃口を突き付けている男に銃を向けられると、まるで弾丸が見えているかのように屈んでかわした。そしてダッシュ。二発目が放たれる前に、腹部に拳で当て身を入れて失神させた。残りの三人はサクライの「取り押さえろ!」という命令に従って、いっぺんに彼に襲い掛かった。一人の股間を蹴り上げる。一人の顎先に肘を決める。最後の一人にはハイキック。目にも止まらぬ早業だった。
慌てた様子でサクライが「ラ、ラオファ!」と叫んだ。すると彼女は、腰の後ろから抜いた鉄針を手にした。計六本あるそれをマオさんに投げ付けた。けれど、彼はまた屈んでよけて見せた。
忌々しげな表情を浮かべて、ラオファは勢い良く前へと突っ込む。右の拳を放つ。だけど、横に動いて、その一撃をマオさんは軽やかにかわした。空振りを誘った上で、腹部に膝を突き立てた。気を失ったのだろう。彼女は、どっと前に倒れ込んだ。
たった一人になってしまったサクライは腰を抜かしたようで、地面にしりを擦り付けつつ、情けないまでに後退した。「ひっ、ひぃぃっ!」と醜い声まで上げる。
「か、か、勘弁しろ。い、いや、勘弁してください」
「何度でも言います。私の身内を痛め付けてくれたことには、いささか怒りを覚えているんですよ。ところで貴方、お名前は」
「サ、サクライです」
「ひょっとして、今は『虎』のボスをやっていらっしゃる?」
「は、はいっ」
「私はね、サクライさん、貴方の先代と、話はつけていたんです」
「は、話?」
「貴方はご存じないようですが、その昔、私は『虎』と少々揉めたことがあったんですよ。きっかけはしょうもないことでした。しかし、散々、追っ手を差し向けられましてね。ごちゃごちゃとやり合うのも面倒だったので、随分と速やかに殺しました。無論、隠密にではありますがね。すると、ある日、親分さんが直々に会いたいと言ってきました。もう手を出したりしないという話でした。そして、その場で不可侵条約を提案されたんです。私一人を殺るために、多数の構成員を失うことは割に合わないと考えたんでしょうね。先代は出来たニンゲンだった。約束を違える真似はしなかったわけですから」
「だ、だけど、そんなこと、耳にしたことは……」
「ええ。ですから、そのへん、ご存じなくても結構です。組織の中で適切な引き継ぎがなされなかったというだけのことでしょうから。ただ、結果的にではありますが、サクライさん、貴方は馬鹿な真似をしたというより他にない」
「た、た、助けてくれ」
「殺したところで、あるいは殺さなくとも、追っ手はかかるでしょう」
「そんな真似、させないから。させやしないから」
「その言葉を信じることできませんね。貴方はきっと、ここで生きながらえるようなことになれば、椅子に踏ん反り返って、私を殺せと部下に命令する」
「お、俺とも不可侵条約を結んでくれ。それでかまわないから」
「繰り返しになりますが、申し上げた通りです。貴方を殺そうが生かそうが、どちたにせよ、私はあなたがたに目の敵にされる」
「お、お願いだ。な、なんでもするし、なんだってくれてやるから」
「物も金も要りません。貴方はここで死んでください」
マオさんはそう言うと、懐から抜いたリボルバーを使って、無慈悲にサクライの額を撃ち抜いた。仰向けに倒れ、彼は絶命したようだった。
「ちょっとした予想外だ。これからヤクザ連中の相手もすることになるかもしれない。本当にめんどくさいなあ」
「マオ、さん……?」
「ああ、ごめん、ごめん。君の拘束を解いてやることが、第一だね」
マオさんはわたしの後ろに回り込むと、どういった手段を用いたのかはわからないけれど、すぐに手錠をはずして見せた。それから、床に捨てられていたブラウスを拾い上げ、わたしが袖に腕を通すと、前ボタンを丁寧な手付きでしめてくれた。
「マオさん……」
「うん?」
「どうしてここに……?」
「もういい時間なのに、君は事務所にいなかったからね。あるいは男が出来て、だからよろしくやっているのかもしれないとも考えたんだけれど、一応、探してみることにした」
「どうやってここを突き止めたんですか?」
「ユアンっていう売人は知っているかい?」
「はい」
「そのユアンと、たまたま街中で会ってね。それで聞かされた。君が大男に担がれて黒塗りの車に乗せられたってね。その様子を、偶然、路地の建物の陰から見ていたそうなんだよ。多分、『虎』のニンゲンじゃないかとも言っていた。そこで、まずはここを洗おうと考えた次第だ。ボスが入れ替わったことについても、彼から知らされた」
「ここって『虎』の持ちビルですよね」
「うん。そうだ」
「だったら、この場を訪れるのは、そう簡単なことではなかったと思うんですけれど……」
「警備のニンゲンは、何人かいたね」
「殺したんですか?」
「いや。叩き潰しただけだ」
マオさんが「歩けるかい?」と問うてきた。「大丈夫です」と答えて、わたしは椅子から腰を上げた。どうやら地下にいたらしい。エレベーターで一階にあがった。廊下には、確かに組員とおぼしきニンゲンが数名、倒れていた。へたり込んだまま、壁に背を預けている者もいるけれど、もうこちらを襲うつもりはないようだ。それほどまでにビビッているのだろう。マオさんに体術の心得があるのは知っていたけれど、複数を相手にしても遅れることがないくらいの腕力と技量を持ち合わせていることなんて知らなかった。能ある鷹はなんとやらってヤツだろうか。




